人間は本質的に弱い。
精神論ではない。抗えない宿命。
弱さを正面から見つめ、どうやって生きてゆくべきか。
実践的な問いを立てなくてはいけない。
今の世の中の風潮が、止むことのない風のように「強くあれ、生産的であれ、前向きであれ」と命令してくる。
輝かしい成功、揺るぎない精神力。
声高の要求が、我々を追い詰め、魂を疲れさせている。
まるで生まれつき、泳ぎの上手くない人間を大海に放り「さあ泳げ、力強く泳ぎ続けろ」と言ってるような残酷さがある。
人間の弱さは、克服しなくてはいけない欠点、取り除くべき不純物だとか、そういうものではない。
例えるなら、我々の生まれ持った土地の性質、地盤のようなものだ。
ある土地は岩盤の様に硬く、ある土地は水を含み緩い。
それを無理やり、全部同じように固めたりすれば、歪みを生じ、地割れを起こすのが道理でしょう。
大事なのは、自分の立っている土地の性質を、ありのまま知る事。
「自分は地盤の弱い方の人間らしいぞ」と冷静に、客観的に自覚する事。
これが第一である。
自己否定とか卑下とは全然、次元が違う行為である。
「あぁ、俺はなんて駄目な人間なんだ」なんて責め立てる事じゃない。
非常に非生産的な、ただの自己攻撃で、魂のエネルギーを無駄遣いしてるだけだ。
自分の地盤の性質を、ちゃんと把握すること。
その上で、じゃあどうやって安全な家を建てて、穏やかに暮らしていくか。
非常に現実的で、建設的な対策を立てる、知的な第一歩な訳です。
地盤が緩いなら、基礎工事を工夫すれば良いのですよ。
高い建物は無理かも知れないけど、平屋で風通しの良い、気持ちいい家なら建てられるはずだ。
その為の冷静な現状分析が必要なのだ。
事に感情の揺れ動きを、精神の弱さの証拠みたいに言われるでしょう。
しかし、これも考え直す必要があるのではないか。
例えば人前で、すぐ泣いてしまう。
ちょっとした事で心が動揺するとか。
それは本当に魂そのものが弱い事の証明なのか。
僕はそうは思わない。
むしろ、その人間が持っている泣きやすい肉体、反応しやすい身体、という体質の問題と捉えるべきではないかと。
アレルギー体質の人間が、あるものに過敏に反応するのと同じ。
ある種の刺激に涙とか動悸とか反応を起こしやすい。
ただそれだけの事だと思うのです。
ここで我々が徹底して、やらなくてはいけないのは
涙が出るという肉体的な現象と
「だから俺は弱い人間なんだ」という後からくっつける精神的な『刻印』ラベリング、これをはっきり分ける事なのです。
この二つを、ごっちゃにしてはいけない。
現象は現象で、ただそこに在るだけだ。
問題なのは、その現象に僕ら自身が貼り付けてしまう、そのネガティブなラベルの方なのです。
この後付けの刻印こそが、自分を一番深く傷つけて、自己肯定感を蝕んていく元凶なのだ。
現象は嵐の様なもので、そのうち過ぎ去る。
だけど刻印は自分でその杭を打ち続けている限り、いつまでも魂を縛り付けてしまうのです。
感情の荒波に呑まれそうになった時、世間では「精神力で耐えろ。気合で乗り切れ」なんて言うでしょう。
だけどそれは、あまりに酷な要求だと思う。
小舟で嵐の海に出た人間に、ただ「ひっくり返るな」と叫んでるのと同じですから。
僕が勧めたいのは、もっと即物的、身体的な対処法です。
精神力なんていう当てにならないものに頼るのではなく、物理的な行動で状況を打開する。
観念の嵐で精神が滅茶苦茶になりそうな時、僕が勧めるのは、精神の入れ物である肉体を物理的に隔離する事です。
人目を避けて、静かな個室に籠もる。
これは敗走じゃない。
外界から余計な情報を遮断し、精神の態勢を立て直す。
戦術的撤退です。
あるいは頭の中で思考が、どうしても暴れ回るなら、意識を今ここにある自分の肉体のごく単純な律動、つまり呼吸に意識を向けるのです。
観念の堂々巡りという不毛な運動から、吸って吐くという生命の基本的な運動へ意識の重心を移す。
これこそ精神の無益な消耗を防ぐ、肉体を通じた最も確かな技術である。
我々を絶えず蝕む不安というものに、一度冷静に解剖してみる必要がある。
不安というものを、得体の知れない巨大な怪物の様に一括りにしてはならない。
そこには少なくとも、二種類あると考えている。
一つは眼前の具体的な課題から生じて、我々に行動を促す、言わば生産的な不安というべきものです。
例えば、一行の文章を前にして、自分の言葉が目指す美の頂にまだ届いていないという、あの焦燥感です。
この類の不安は全く別で、安易な自己満足を蹴散らし、精神をぐっと高い次元へと引き上げる。
真に創造的な衝動なわけです。
しかし、もう一つの考えても答えの出ない思考がぐるぐる堂々巡りするだけの観念的な不安。
これを僕はあえて『趣味の不安』と呼びたいです。
「十年後、俺は人生で独りぼっちじゃないか」
「自分の人生に意味など無いんじゃないか」
そういう壮大で答えの無い問いです。
自分の悩みにあえて『趣味』と名付ける。
この一見、不謹慎な行為で、深刻で自分と一体となった問題との間に、一種の距離が生まれる訳です。