https://twitter.com/hoho_ko8exjw/status/1626218406545608705
ツイートの返信が大変に長くなってしまい、PCとスマホのブラウザでも順番が変わってしまうようで、
とても見にくくなっている上に、間違えも残っていたので、こちらに原文を貼らせていただきます。
以下、リツイートの内容になります。
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ほほこさんのお父さん、戦争に行かれていたのですね。私が働きはじめたころにも戦争に行かれた方が、まだ仕事場にぽつぽつといらっしゃって生々しい話を聞いたりしました。
その辺りも踏まえ、慈しみの話は興味深いものがあります。時代的にも仏教の慈悲の影響が強そうです。私はこの1年、ウクライナ中毒のようになっています。WW2当時の日本は、現代ロシアよりもまして非道かつ狂気と言えるような部分も多々あったと思います。そうした中での良心の葛藤もあったでしょうし、心的外傷後ストレス障害を負っていた可能性も十分にあると思います。
最近よく考えている精神的な問題についてですが、人格の解離や共感力についてです。例えばのパターン推測ですが、心的外傷後ストレス障害による苦悩から逃避するために、自身の中に新たな人格を作ろうとしてキリスト教(教団イデオロギー)に傾倒し、他の部分の多くを遮断してしまったといったこともありそうに感じます。
現代で見かけるエホバの証人に足りないものの大きな要の一つは、共感力にあると思います。共感力には二つの種類があり、情動的共感性と認知的共感性になりますが、このどちらか、または両方かもしれません。とくに認知的共感性は相手の立場、もろもろの相手の条件に立って考えることですが、これがとても劣っています。また、肉体的な痛みや、深い心痛などを持つ相手に対して、その痛みを感覚によって感じとる能力(情動的共感性)も劣っているので、平気でむち打ちや排斥ができるのですね。これを愛ある去勢などと洗脳していますが、これが愛と慈悲の定義の大きな違いの一つになると思います。
ここでの「愛」と呼んでいるものは、一方的な自身のイデオロギーの押し付けであり、相手の存在をありのままに見るのではなく、自己世界を投影しているだけです。このケースの場合はとくに、大変未熟なイデオロギーの押し付けであり、その投影のために相手はとても苦しむことになります。
仏教の慈悲の考え方は、定義、解釈も一つではないでしょうが、まずは、感じ取ることにあると思います。また、相手を人間に限定する要素も高くないと思います。動物や植物に対してもあるのですね。
仏教では(色々な分派があり重点が他に向いている宗派もあると思いますが)空の理論が土台となり、そのものだけで自立している存在は無いとします。解りやすく説明すると、「私」は間違いなく自身の意思を持ち存在していますが、もし、自分以外の存在が何も無くなれば、そこに存在している意味がなくなります。よって、空とは、何もないのではなく、存在するものは各々が関係を持つことで存在しているといったことです。
キリスト教系の愛の定義はどうでしょう。聖書内の動物への愛や、とくに植物への愛とかあるのかな?羊飼いが迷った羊を探すというのがありますが、これは仕事としての一面でもあり、純粋な悲哀の情だけではないと思いますし。ただ、書かれた数千年前の時代背景においては、とても進んだ道徳的な考え方であったとは思います。
覚醒は人それぞれで、私も最近、妻の変化に時間がかかるのは仕方ないと考えています。やはり、それなりのカルトに取り込まれる資質があるので、本人が必要な社会経験を積みながら人格を成長させるしかないですからね。ただ、緩く甘えた共依存のような関係でいようとは思いませんが。