私は仏教を宗教とは認識してはいない。そして宗教と見てはいけないと思う。
明らかに仏教はキリスト教やユダヤ教、イスラム教とは根本的に違うし比較の対象にはならない。しいていえば聖書に書かれているキリストの言葉の中で部分的なところで類似点はがあるが、 後から出てくるカソリック、プロテスタントとは全く別物だと私は思っています。
 

なぜかというと仏教は悟りを目的にしたものであり、どこかの神を崇拝するものではないからです。つまり仏になることによって死、苦から解放されるということが目標であり、そのための修行が考案され、生活に取り入れることで悟ったもの、つまり仏陀になることであり神に信じ寄りかかるものではない。
異論として浄土真宗などの大乗仏教はどうなのかという人もいると思うが、これらの大乗仏教はあくまでも方便ではないかと私は思っている。これらの宗派は誤解されるところが多いが決して仏教とは別物ではありません。
これら浄土真宗などは別の機会にあらためて取り上げるとして今回の本題に入りたい。
 

タイトルの正しく見るとは仏教での八正道の一つ正見のことです。それ以外に八正道には正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定がありますが私として特に重要だと考えているのは正見です。
 

さて正しく見るとはどいうことでしょうか?問題は正しいとは何かということです。私はある時期にそのことで悩んだ時期がありました。また八正道を実際に実績したものの、その正しいという基準がいかに曖昧で取り留めないものだと実感し、八正道の実践は挫折しました。そのとき八正道の実践は自分には無理ではないかと考えましが、それでも正しいとはなにかと考えつづけて自分なりの答えを導き出しました。
それは中道ということです。それは右にも左にも偏らないものの見方。
 

それなら正見の説明が付きます。それで正思は極端な思い、右にも左にも偏らないように思い、考える。正語は極端な言葉遣いをしないとか大体のところ説明がつく。というわけで自分勝手に正見を解釈したうえで、さらに自分なりに中道を解釈した。その解釈は右でも左でもない。上でも下でもない。高くも低くもない。その他色々…つまりどちらでもないということです。
 

さて話を正見に戻します。私は八正道の中で最も重要視をしているのは正見です。怒られるかもしれませんが後はオマケみたいなものだと思っています。人間は反応する動物であり、その反応する時に対象を見ることから始まります。
見て反応して確認する。それが最も人間生活において重要な役目であり物事の判断する基本的なものであるといえます。さらに見るということは観察するということに繋がります。
 

私は八正道のうちでこの正見が深く理解できれば後のものは知識として知っていればいいと思います。極端なことを言えば無視でもいいかなと思います。その理由は正思を一つ上げても正しく思うこと、つまり思考のコントロールなどは不可能です。人間の思考は偶発で考えようとして考えているわけではありません。また人間の生活習慣は変えようとしても変わることはありません。もし変わるなら外部からの強い圧力があって、その反応としての変化が現れます。
そして八正道が実践できるものなら大乗仏教は現れることはなかったでしょう。
                                つづく