日露戦争でスパイ大作戦を演じた明石元二郎。台湾に骨をうずめた。
明石元二郎(あかし もとじろう)1864年9月1日(元治元年8月1日) - 1919年(大正8年)10月26日)は日露戦争中に、ロシア革命支援工作を画策し、多大な成果をあげ、日露戦争の日本勝利に大きく貢献したことで有名です。ドイツ皇帝ヴィルヘルムは「明石一人で、大山率いる二十万の日本軍に匹敵する戦果をあげた」と称賛したといいます。
明石は大正7年(1918年)から第7代台湾総督をつとめ、台湾電力を設立し水力発電事業を推進し、日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正したことで、台湾の人の知名度も高いようです。
明石は急死するまで一年余の総督でしたが、大正8年(1919年)に「台湾教育令」を発令します。これがその後の台湾の発展に大きく寄与したといわれており、台北師範学校、台南師範学校、台北工業学校、台中商業学校、農林専門学校をはじめ多くの学校が開校されていきます。8代総督・田健二郎になってからの大正10年(1921年)には日本人と台湾人の共学が可能になります。これにより台湾人にも帝国大学への道が開かれます、李登輝元総統は京都帝国大学出身です。昭和3年(1928年)には台北帝国大学が設立されます。これは大阪帝国大学、名古屋帝国大学よりも先に開設しています。当たり前の話ですが、当時台湾は日本であり、日本の植民地ではありません。
明石元二郎は大正8年(1919年)7月、原因不明の発熱で倒れ、一時回復するも内地で開かれる陸軍大演習の視察のために帰国しますが、帰国途中に容態が悪化し、郷里の福岡で帰らぬ人となりました。明石は生前より「もし自分の身の上に万一のことがあったら、必ず台湾に葬るよう」と遺していました。つまり、台湾に骨をうずめる覚悟で台湾総督の任務に着いていたということです。台湾総督の仕事に命をかけていたのです。
そして明石元二郎の遺骸は台湾の日本人墓地に埋葬されることになりましたが、明石総督を尊敬してやまない台湾人から多額の寄付金が寄せられ「軍人中、皇族方を除いては明石のような墓を持ったものはない」と言われるほど立派な墓が建てられました。
その後、大東亜戦争後の国共内戦に敗れて台湾にやってきた国民党の兵士や難民が日本人墓地にバラックを建てて住みはじめましたが、平成6年(1994年)になって陳水扁台北市長(後、総統)は彼らを立ち退きさせます。平成9年(1997年)に明石総督の墓は掘り起こされることになり、明石総督の遺族らが見守る中で発掘されました。墓の移転先は多くの台湾人が名乗りをあげ、その中には高砂族の方もいらっしゃいました。多くの意見が寄せられ交流協会(日本大使館のようなもの)の後藤大使は頭を抱えてしまいますが、台湾北部の三芝郷というキリスト教墓地に決まりました。
明石総督のお墓があった元の場所は整備され、三ヶ国語で書かれた碑文が建てられ明石元二郎の統治があったことを紹介しています。
「余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」
参考文献
小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸を張りなさい 蔡 焜燦(著)
桜の花出版「日本人はとても素敵だった」楊 素秋(著)
参考サイト
WikiPedia「明石元二郎」
添付画像
明石元二郎(PD)
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明石元二郎(あかし もとじろう)1864年9月1日(元治元年8月1日) - 1919年(大正8年)10月26日)は日露戦争中に、ロシア革命支援工作を画策し、多大な成果をあげ、日露戦争の日本勝利に大きく貢献したことで有名です。ドイツ皇帝ヴィルヘルムは「明石一人で、大山率いる二十万の日本軍に匹敵する戦果をあげた」と称賛したといいます。
明石は大正7年(1918年)から第7代台湾総督をつとめ、台湾電力を設立し水力発電事業を推進し、日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正したことで、台湾の人の知名度も高いようです。
明石は急死するまで一年余の総督でしたが、大正8年(1919年)に「台湾教育令」を発令します。これがその後の台湾の発展に大きく寄与したといわれており、台北師範学校、台南師範学校、台北工業学校、台中商業学校、農林専門学校をはじめ多くの学校が開校されていきます。8代総督・田健二郎になってからの大正10年(1921年)には日本人と台湾人の共学が可能になります。これにより台湾人にも帝国大学への道が開かれます、李登輝元総統は京都帝国大学出身です。昭和3年(1928年)には台北帝国大学が設立されます。これは大阪帝国大学、名古屋帝国大学よりも先に開設しています。当たり前の話ですが、当時台湾は日本であり、日本の植民地ではありません。
明石元二郎は大正8年(1919年)7月、原因不明の発熱で倒れ、一時回復するも内地で開かれる陸軍大演習の視察のために帰国しますが、帰国途中に容態が悪化し、郷里の福岡で帰らぬ人となりました。明石は生前より「もし自分の身の上に万一のことがあったら、必ず台湾に葬るよう」と遺していました。つまり、台湾に骨をうずめる覚悟で台湾総督の任務に着いていたということです。台湾総督の仕事に命をかけていたのです。
そして明石元二郎の遺骸は台湾の日本人墓地に埋葬されることになりましたが、明石総督を尊敬してやまない台湾人から多額の寄付金が寄せられ「軍人中、皇族方を除いては明石のような墓を持ったものはない」と言われるほど立派な墓が建てられました。
その後、大東亜戦争後の国共内戦に敗れて台湾にやってきた国民党の兵士や難民が日本人墓地にバラックを建てて住みはじめましたが、平成6年(1994年)になって陳水扁台北市長(後、総統)は彼らを立ち退きさせます。平成9年(1997年)に明石総督の墓は掘り起こされることになり、明石総督の遺族らが見守る中で発掘されました。墓の移転先は多くの台湾人が名乗りをあげ、その中には高砂族の方もいらっしゃいました。多くの意見が寄せられ交流協会(日本大使館のようなもの)の後藤大使は頭を抱えてしまいますが、台湾北部の三芝郷というキリスト教墓地に決まりました。
明石総督のお墓があった元の場所は整備され、三ヶ国語で書かれた碑文が建てられ明石元二郎の統治があったことを紹介しています。
「余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」
参考文献
小学館文庫「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸を張りなさい 蔡 焜燦(著)
桜の花出版「日本人はとても素敵だった」楊 素秋(著)
参考サイト
WikiPedia「明石元二郎」
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