日本人とマレー人は互いに親しみを持った。
$かつて日本は美しかった

 大東亜戦争マレー作戦で日本軍は昭和16年(1941年)12月8日にマレー半島コタバル、バタニに上陸しました。マレー半島はイギリスの植民地でした。日本軍は上陸後、シンガポールへ向けて進撃し、シンガポール手前のジョホール・パールまで進みます。この頃にはマレー人と日本軍は一体感が生まれていたようです。壊れている橋や道路、空港を直さなければならないのを住民が我先にと集まって手伝ってくれたというのです。彼等は一様に「早くシンガポールを陥してくれ」と言ったといいます。ただ、華僑はイギリス側について金儲けしていたので、反日抗日でした。

 星港攻略記 「GHQ焚書図書開封より」
「避難民は日本軍の幕舎の傍らを通ると、腰をおろして動こうともしない。兵隊は攻撃準備のために目がまわるくらい忙しいのであるが、可愛い子供など見ると、つい手をとってあやしたりする。開戦当初は日本兵を見ると逃げ回っていた住民たちも、今では規律正しい日本軍にすっかり慣れて、日本兵の傍らにおれば一番安心だと考えるようになっていた。そして何やかやと、兵隊の手伝いさへ自分からするようにまでなっていた」

 日本軍を敵視していない様子が伺えます。

 サムライ戦車隊長(島田豊作著)
「私がマレー人を見る目は、いつか同胞にたいするような親しさを覚えるのだった」

 日本軍人もマレー人に親しみを持っていったようです。そしてマレー人は日本軍の戦車が通るとバナナやパイナップルやパパイヤ、ドリアンなどを車上に投げ、歓声をあげたといいます。このため更に日本軍人はマレー人のためにもイギリス人をこの土地から一日も早く追放しなければならないと考え、士気があがっていきました。

 島田戦車隊が、ある村の寺に宿営したとき、ある兵隊が椰子の実を採ろうと木に登りかけると、和尚が現れ、兵隊を制止しました。兵隊は「このクソ坊主め、引っ込んでいろ」というと、和尚はなにやら一心に祈りはじめ「いま登った人の足が曲がり、降りられなくなるように祈ったのだ、いまに見てなさい」という。兵隊は一生懸命登ろうとしましたが、すべすべするし、木が細くて丈も高いので結局登れず降りてきました。すると和尚が「それでいいのだ。足が曲がっている、ごらんなさい」という。なるほど、足が”く”の字に曲がっていました。この兵隊、実はもともとガニ股だったんです。それでみなドっと笑ったといいます。マレー人と日本人の親近感が伝わってくる話です。

 戦後にマレーで日本軍の虐殺があったという宣伝がまかれましたが、マレーのラジャー・ダト・ノンチック元上院議員は「日本軍はマレー人は殺していない」と言っています。華僑がゲリラとなって日本軍を攻撃しているのでそれを掃討したのを虐殺と言っています。ゲリラですから戦闘員です。また、戦後直後はGHQ作成の情報操作「真相箱」によって「秘密警察を作って残忍なことをしたから住民から憎まれた」とか「保安隊を作って日常生活のあらゆる面において住民を監視した」というようなマレーへの圧政が宣伝され、前述した「星港攻略記」といった本は没収され、日本国民は日本軍は悪いことをしていたので恐れられ嫌われていた、と思い込まされてしまったのです。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 光人社NF文庫「サムライ戦車隊長」島田豊作(著)
 小学館文庫「真相箱の呪縛を解く」櫻井よしこ(著)
参考サイト
 WikiPedia「マレー作戦」
添付画像
 クアラルンプールに突入する日本軍(PD)

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