鬼の副長・土方歳三。
$かつて日本は美しかった


 新選組副長の土方歳三は沖田総司と並んで現代でも非常に人気があります。

 土方歳三は武家の生まれでなく農家の生まれです。これは局長の近藤勇も同じです。歳三は十七歳のとき松坂屋に奉公にいきますが、番頭と喧嘩して石田村(現在の東京都日野市)に戻り、再び奉公に出ますが、女癖が災いし暇を出され、その後、実家秘伝の「石田散薬」の行商をしながら各地の道場で剣の稽古をし、近藤勇と出会い、天然理心流に入門します。

 新選組の局中法度には「士道に背きまじきこと」というのがあります。これは土方歳三が考えたといわれています。土方歳三は武家の生まれではないため武士に憧れ、武士とは、「武士道」というものを強烈に意識していたと言われています。土方歳三が後世に愛された理由の一つはこの士道であり、函館での壮絶な死に方があったからと思っています。もう一つはイケメンだったからか。よく沖田総司がイケメンといわれますが、そういう史実はなく、土方歳三がイケメンでした。
 
 明治2年(1869年)5月11日(新暦では6月20日)、明治政府軍の箱館総攻撃によって函館は占領され友軍が取り残されました。この時の五稜郭の軍議では篭城意見と函館攻撃意見にわかれ、函館攻撃作戦が取られます。おそらく土方歳三は函館政府は降伏すると考えて死に場所を見つけたことでしょう。
 新選組、伝習士官隊、額兵隊、松平、中島隊による熾烈な攻撃で明治政府軍と大激戦となります。

「燃えよ剣より」
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 ただ一騎、歳三だけがゆく。悠々と硝煙の中を進んでいる。
 それを諸隊が追うとしたが、官軍の壁に押しまくられて一歩も進めない。
 みな、茫然として歳三の騎馬姿を見送った。五稜郭軍だけでなく地に伏せて射撃している官軍の将兵も自軍の中を悠然として通過してゆく敵将の姿になにかしら気圧される思いがして、誰も近づかず、銃口を向けることさえ忘れた。

 この後、行く途中で明治政府軍の士官に何者か問われます。

 「新選組副長土方歳三」

と言ったとき、官軍は白夜に竜が蛇行するのを見たほどに仰天した。
 士官は兵を散開させ射撃用意させた上で、なおも聞いた。
 「参謀府に参られるとはどういうご用件か。降伏の軍使なら作法があるはず」
 「今申したはずだ。新選組副長が参謀府に用ありとすれば斬り込みに行くだけよ」
 あっ、全軍、射撃姿勢をとった。
 歳三は馬腹を蹴ってその頭上を跳躍した。
 が、馬が再び地上に足をつけたとき、鞍の上の歳三の体はすさまじい音を立てて地にころがっていた。

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 こうして土方歳三は銃撃を受けて死にますが実際は函館での土方歳三の最期には諸説あって遺体がどうなったかもはっきりしていません。通説では流れ弾に当たって死んだことになっています。死体は五稜郭に運ばれ埋葬したとも納涼寺に埋葬したとも、息があって一旦近くの民家に運ばれたとも言われています。行方が伝わらないほどの乱戦、激戦だったということで、死に場所を見つけた土方歳三が戦闘中、事態打破のため単騎突入したとしても不思議はありません。

 函館政府はこの6日後に降伏します。函館政府の閣僚八名のうち戦死したのは土方歳三ただ一人です。このことも土方歳三の名をあげています。後年、これら閣僚の榎本、大鳥ら(明治政府で働く)は函館戦争の思い出を語るとき、土方歳三の話に及ぶと一様に何かしら苦渋に満ちた表情を浮かべて声をのんだといいます。武士として恥を感じたのでしょう。



参考文献
 新潮文庫「燃えよ剣」司馬遼太郎(著)
 学陽書房「土方歳三」三好徹(著)
 実業之日本社「新選組」松浦玲(監修)
参考サイト
 WikiPedia「土方歳三」
添付画像
 土方歳三(PD)

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