沖縄に中共がやってくる。
$かつて日本は美しかった

 沖縄学の父といわれる伊波普猷(いは ふゆう)氏は沖縄人の欠点として「恩」を忘れやすいということをあげています。

「沖縄人の最大欠点は恩を忘れやすいということである。(中略)思うにこれは数百年来の境遇が然らしめたのであろう。沖縄においては古来主権者の更迭が頻繁であったために、生存せんがためには一日も早く旧主人の恩を忘れて新主人の徳を頌する(しょうする 褒め称えること)のが気がきいているという事になったのである。しかのみならず、久しく日支両帝国の間に介在していたので、自然二股膏薬主義(ふたまたこうやくしゅぎ)を採らなければならないようになったのである。
(中略)
『食う与ふる者は我が主也』という俚諺(りげん ことわざのこと)もこういう所から来たのであろう。沖縄人は生存せんがためには、いやいやながら娼妓主義を奉じなければならなかったのである。実にこういう存在こそは悲惨なる存在というべきものであろう。このご都合主義はいつしか沖縄人の第二の天性となって深くその潜在意識に潜んでいる。これは沖縄人の欠点中の最大なるものではあるまいか。世にこういおう種類の人ほど悲しいものはない、彼らは自分等の利益のためには友も売る、師も売る、場合によっては国も売る、こういう所に志士の出ないのは無理もない。沖縄の近代史に赤穂義士的な記事の一頁だに見えない理由もこれでよくわかる」


 ようするに事大主義、ご都合主義ということです。この話は明治42年に沖縄新聞に掲載されたものですから、そこまでの歴史をたどってみると、15世紀に琉球王国ができ、その王統もクーデターで代わりました。このとき『食う与ふる者は我が主也』(むぬくゆしどうわあうしゅう)という言葉が生まれました。やがて薩摩の世になり、そして大日本帝国の世になったという流れがあります。今はそんなことないよー、という沖縄県人は言うかもしれません。その後、大東亜戦争で日本が敗戦し、沖縄はアメリカが軍政をしき、そして本土復帰となりました。沖縄出身のジャーナリスト、恵隆之介さんの記事を引用してみます。

「1957年、日本本土に展開していた米海兵隊が沖縄に移駐してきたと時、地元紙二紙(琉球新報と沖縄タイムス)は今とは逆に歓迎の論調を展開していたのである。まさに解放軍がやってきたかのような論調であった」

 現在ではあれだけ米軍基地反対の運動をやって沖縄メディアはそろって同調しているのですから、信じられない話ですね。

「ところが1960年代後半からベトナム戦争が激化し、米国は国力を消耗し、日米の経済力が逆転する。
 ここで沖縄の新米ムードは減退し、日本復帰モードに転換していった。ただその動機が不純であった。
 『復帰すれば、生活はもっと良くなる』がこの時のキャッチフレーズであったのだ。この運動の中心になったのが労働組合や沖教祖である」


 実は公務員の給料はアメリカ並に低く抑えられていて、本土復帰になればベースアップがあるという狙いがあったようです。ビジネス界もニクソンショックがあると雪崩をうって本土復帰運動に合流していきました。

「ところが平成8年、米海兵隊兵士による沖縄小学女児童暴行事件が発生したとき、政府は沖縄への補助金を倍加し、とりわけ労働組合対策費として基地所在市町村に資金使途自由な資金訳70億円を設定したのである。
 この時、バブル経済下で尾羽打ちからし(みすぼらしい姿になることのたとえ)ていた沖縄財界は渡りに船と、沖縄左翼に同調したのである。
 県を始め、各市町村は、予算獲得陳情するよりも、「基地反対」を叫んだほうが予算を一気に増やせることを体感し、もはやブレーキは利かなくなってきたのである」


 どうやら、伊波氏の懸念はその後もずっと続いたといえます。ですが、次のご主人様が中共になるのは勘弁して欲しいものです。ただ流れはその方向のようです。喉から手がでるほど沖縄が欲しい中共にとって米軍基地ほど目障りなものはない。日本が自主防衛できるようにすればいいのですが、それを沖縄では叫んでいません。



参考文献
 平凡社「沖縄歴史物語」伊波普猷(著)
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『占領軍を解放軍と呼んだ沖縄メディア』恵隆之介
 小学館「沖縄論」小林よしのり(著)

添付画像
 沖縄 万座毛(まんざもう PD)

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