武士道は生きていた。
$かつて日本は美しかった

 今の平和な時代は死を傍らに意識して生活したり、命をもって事にあたるような必要はないし、そのようなことは存在しないようにも見えます。面白い話があります。
 松下電器(現パナソニック)を創設した松下幸之助さんのエピソードで松下電器の洗濯機が他社に大きく差をあけられてしまったときのこと。会議上でのやりとりです。

幸之助「他メーカーに劣るような洗濯機をつくっとったのでは、後れをとるのは当然や。将来のことを考えても大問題だと思う。なぜ、そんなものができたのか。きみ自身が本当に命をかけて洗濯機というものをつくっていないのと違うか!」
製造責任者「いや、まことに申し訳ありません。しかし、あと3カ月だけ待って下さい。3カ月のうちに必ず営業や社長の期待に添うような洗濯機をつくってみせます」

 製造の責任者がその意気込みのほどを見せたので、これで会議が終わるとその場にいた全員が思った。しかし、幸之助は、厳しい調子でさらに続けた。

幸之助「わかった。3カ月待とう。3カ月待つけど、3カ月たって優れた製品ができなかった場合は、きみ、どうするか。そのときはきみの首をもらうがいいか。その血の出る首だよ! きみ! 首をくれるな!」。そう言って、手をぬっと差し出したのである。

 この話は、物つくりは命をかけるほどの思いで取り組まなければならない厳しいものだという幸之助さんの考えを伝えています。松下幸之助さんは著書「指導者の条件」の中でも閔妃事件の後始末を行うとき、小村寿太郎が勝海舟に教えを請いに行った時のことを取り上げています。

勝海舟「自分も江戸開城などの大きな交渉で苦労してきたが、結局いえるのは、死生を意にとめたら仕事はできないということだ。身命なげうち、真心を込めてやるという腹さえ決まっていれば、あとはその場合その場合で考えたらいい」

幸之助さんは「命をかけるほどの思いがあって、はじめていかなる困難にも対処していく力が湧いてくるのだと思う。」と述べています。

 この幸之助さんのエピソードは「葉隠」の「武士道とは死ぬことと見つけたり」に通じるものがあります。「葉隠」というのは江戸時代中期に肥前国鍋島藩藩士、山本常朝の武士としての心得を記録したものです。「死」を常に意識し、生か死かの選択のときには「死」を選べば「恥」にはならない。これが武士道の本質であり、この武士道の本質を得たなら生涯誤りなく奉公ができる、というもので、「生」を輝かせるためのものです。また、「葉隠」では「武士道は死に狂ひなり」とも言っており、これは正気でいては、大仕事も達成することができない、ということを言っています。松下幸之助さんは、武家の末裔ではありませんが、日本人として「武士道」をなんらか感じ取っていたのでしょう。

 こうしてみると現代でも「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」は通用するし、実は日本人の中に生きている、あるいは日本人が必要としているもののように思います。



参考文献
 PHP文庫「指導者の条件」松下幸之助(著)
 「商人道」佐藤悌次郎
 新潮文庫「葉隠入門」三島由紀夫(著)

添付画像
 松下電器歴史館の松下幸之助像 Auther:Rsa氏

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 クリックで応援お願いします。
広島ブログ お手数ですがこちらもよろしくお願いします。