恐るべき支那の虐殺文化を知った日本。
$かつて日本は美しかった


 朝鮮半島で東学党の乱がおこり、清国は「属邦保護」のため出兵。日本は清国に強行に抗議し済物浦条約(さいもっぽじょうやく)に従い出兵します。朝鮮の李朝、閔氏一族は逃亡しました。そして閔氏一族の反対勢力であった大院君が李朝に復権します。大院君は清韓宗属関係(清国が宗主国で韓国が従う国)の破棄を宣言し、駐屯の清国軍の排除を日本に依頼します。明治27年(1894年)8月1日、日清両国は宣戦布告を交わします。

「朝鮮は帝国(日本)が始めに誘って列国と交際を始めた独立国である。清国は常に朝鮮を属邦としてしか扱わない」(布告文)

 日本は朝鮮の独立をかけて戦うことになります。本来、独立国家となるなら朝鮮が戦うべきですが、李朝には戦う力はなく、日本が戦うことになります。もちろんこれは日本の国益にもかなっており、半島の安定と日本との友好関係は日本の安全保障の基礎です。

 7月25日の朝鮮西岸の豊島沖の遭遇海戦以来、陸戦、海戦ともに日本軍の連戦連勝でした。後の支那事変でも同様ですが、支那では前線で戦う兵士は各地から拉致したり、募集した若い男子を兵士にしています。要するに烏合の兵士です。ですから士気が低く、まともに戦えば勝負になりませんでした。日本軍は愛国心を持った天皇の軍隊でであり、使命感、練度が全く違います。

 戦闘で頑強に抵抗する清軍の陣地を攻略した日本の兵士は鎖で足を縛られた清国兵士を見て驚き、憐れなその姿に涙を流したと言います。逃げられないよう死ぬまでここで戦うように鎖で縛られていたのです。清軍は督戦隊というのがいて、前線の兵士を監視し、逃げると撃ち殺していました。
 また、清軍の捕虜になった日本兵の無残な姿を見て捕虜の運命を知ります。虐殺され食われていたのです。大陸、半島では食人の習慣があったのです。また支那軍は日本軍の首を取ったものには懸賞金までかけており、200名が首を取られ、銃殺者は計り知れなかったといいます。

「敵はわが軍の屍に向かって実にいうべからざる恥辱を与へたり。死者の首を斬り、面皮を剥ぎ取り、或いは男根を切り取り、胸部を割きて入るるに石を以ってす。この様を見て誰か驚かざらん」(秋山好古騎兵大隊の稲垣副官の手紙)

 清軍は日本兵だけでなく朝鮮住民に対しても掠奪、強姦、虐殺をほしいままにし、清軍のいくところ、人民は悉く町や村を捨てて逃避する有様で、さすがの清の指揮官も「髪、天を指す」と打電するほど激怒しました。

 この清軍のあまりの残虐ぶりに山県有朋第一軍司令官は次のように布告します。
「(敵に対しては)軍人といえども降るものは殺すべからず、然れどもその策術にかかる勿れ。かつ敵国は古(いにしえ)よりきわめて残忍の性を有せり。誤って生け捕りに遇はば、必ず残虐にして死にまさる苦痛を受け、遂には野蛮惨毒の所為を以って身命を殺害せらるるは必然なり。故に決して敵の生捕りする所となるべからず。むしろ潔く一死を遂げ、以って日本男児の名誉を全うすべし」
 
 日清戦争は大陸の生死の過酷さを日本人に教え、負けて捕虜になったときの脅迫観念を植え付けました。これは後の大東亜戦争時の戦陣訓「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」につながっています。

 清軍の蛮行の一方、日本軍は終始、国際法を忠実に守りました。フランスの国際法学者フォーシーユ。
「事実は、日本政府がその採択せる文明の原則を実行するに堪えることを示した。日本は日清戦争で敵が国際法の原則を無視したにも拘らず、自らはこれを遵守した」




参考文献
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲著

添付画像
 平壌の戦い(PD)

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明治27-28年(1894-95) 日清戦争
http://www.youtube.com/watch?v=vifS8jWKs9M