昨年、本屋をぶらり覗くと「名将の決断」という雑誌がありました。朝日新聞発行というのが気に入りませんが、長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)の特集だったので買いました。私のご先祖らしいですが、詳しく知らなないと子供に語り継げないな、と思いました。
 長宗我部氏は戦国時代、土佐の7つの豪族の最も弱小勢力でした。元親は子供の頃から無愛想で部屋に閉じこもって本ばかり読んでおり「姫若子」と呼ばれていました。「あいつは役に立たん」と嘲笑されていました。
 元親が初陣のとき、わずか二十騎で敵陣の左翼の前に床几(しょうぎ)をすえて腰をおろしました。それを見た父が、
「うつけ物が。あのままでは、たちまち敵にかこまれてしまうではないか」と言います。
敵軍は飛んで火にいる夏の虫とばかりに攻めかかってきましたが、元親は騎馬に乗るとたちまち敵三騎を突き伏せ阿修羅のように敵を蹴散らします。その間に本隊に敵背後を突かせるという奇策をやってのけます。

 普段本ばかりよんでいるのに槍をとって戦えるかというと出来るはずはないので創作だと思いますが、弱小豪族が一代で四国を平定したのですから知略に優れた武将だったことは間違いないでしょう。
 後に豊臣秀吉の四国征伐があり、元親はさすがに強大な大勢力の前に屈してしまいますが、聚楽第の茶会で諸大名が居並ぶ前で「悪い時代に生まれてきて、天下の主に成り損ねじ候」と言ったそうです。

 元親の知略の特徴は人心掌握術と言われています。戦功に応じて家臣に城や土地を惜しげもなく与える一方で、降伏したものも領土安堵するようなことをしており、元親への寝返りが相次いだようです。また、合戦で寺社が焼けると修復など怠らなかったようです。豊臣秀吉のやり方に似ていますね。
 合戦では「麦薙ぎ」と言って田畑に実っている麦や稲を刈り取って敵の食料を奪う戦術がよくとられますが、元親は一畦おきに麦を刈り取るように指示し、農民たちの食糧分を残しました。これには農民が感激し、この噂が広がり周辺の敵の豪族たちの中から元親に恭順する者が多くなったといいます。
 豊臣政権下ではサン=フェリペ号事件、『長宗我部元親百箇条』という分国法が有名です。1599年5月、上洛して間もなく病で伏見屋敷で死去。享年61。長宗我部家は四男の盛親が家督を継ぎます。この盛親は後に大阪の陣で奮戦することになります。



参考サイト
 Wikipedia「長宗我部元親」
参考文献
 朝日新聞発行「名将の決断 No.16」2009年6月21日

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