1894年~1895年の日清戦争は陸戦で連戦連勝しました。海戦でも黄海海戦、威海衛海戦で勝利し、清の北洋艦隊を降伏させました。
司馬遼太郎著「坂の上の雲」によると海戦は清国が断然有利と世界の専門家が予想していました。清国には定遠、鎮遠という本格的戦艦があるのに対し、日本艦隊は巡洋艦が主力であり、大艦巨砲が勝利の決め手になるという絶対原則から当然そう考えられていました。ところが米海軍の少将ジョージ・E・ベルナップは日本海軍の全面勝利を予想しました。ベルナップ少将は日本の司令官が22隻の艦隊を連動させているのを見て、英国艦隊となんら遜色がないことから、練度の低い清国艦隊が相手であれば、結果がどういうものか容易にわかると述べました。実際結果はその通りとなりました。
開戦前の1886年、清国海軍の定遠、鎮遠が長崎に寄港しています。その威容に日本国民は戦慄しました。東郷平八郎は呉でこの艦隊を見ています。そして「こんな国怖くない」と断言したそうです。呉に寄港中、清の兵士たちは洗濯物を戦艦の大砲に干していたというのです。
日本海軍は定遠、鎮遠に対抗するため松島型防護巡洋艦三隻を建造しています。これにはちょっとしたエピソードがあります。それぞれ松島(まつしま)、厳島(いつくしま)、橋立(はしだて)と日本三景にちなんで命名し、三景艦といわれました。なんだか強そうな名前の付け方ではないですね。この三景艦はフランスからエミール・ペルダンという造船技師を招いて建造しました。ところが、排水量に比べて定遠を上回る32センチ砲を一門添えて一点豪華主義のようになっており、実戦には疑問がつきました。しかも松島の主砲は後ろ甲板につけるという???でした。実は前甲板と後ろ甲板に32センチ砲をつけた2隻ずつ合計4隻造るつもりで、定遠、鎮遠の砲門と排水量に対する数合わせでした。しかし、こういう妙な設計は特別な戦術や訓練も要するわけで、さすがに海軍首脳部はおかしいと気づき、三隻でエミール・ペルダンとの契約を解除し、エミール・ペルダンの顔をたててあげるため「三景艦」と名づけて、「もともと三隻を予定していた」ということにしたわけです。他人の名誉をも重んじる日本人らしい気遣いですね。三景艦は海戦で主砲は役に立ちませんが、副砲である速射砲と高速の運動性能により大活躍しました。
参考文献
「坂の上の雲」司馬遼太郎著
PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡部昇一
PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一監修
「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之共著
参考サイト
WikiPedia「日清戦争」「松島型防護巡洋艦」「鎮遠 (戦艦)」
添付画像
松島型防護巡洋艦(PD)
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