スパイ大作戦。
$かつて日本は美しかった

 明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争において明石元二郎(あかしもとじろう)大佐のスパイ活動は有名です。陸軍参謀本部参謀次長・長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評しました。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えました。

 明石元二郎は運動神経が鈍かったといいます。また外見に無頓着だったといいます。しかし語学力はずば抜けており、あるパーティで外国人から「何語なら話せるか?」とフランス語で問いかけられて「フランス語が少し話せる程度です」と答えて、風采の上がらぬ明石を見て安心したのか、その外国人は隣の人間とドイツ語で密談を始め、明石はそしらぬ顔で彼らの会話を聞き貴重な情報を収集したといいます。

 明石元二郎は100万円(現在の40-50億円)の工作資金を持たされ、大国ロシアの不満分子、ロシア国内の革命政党であるエスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどに資金援助するなどをたきつけて内乱を起させ、ロシアを内部から揺さぶる使命を帯びます。
 日露開戦によってロシアのペテルブルグ日本公使館はひきあげとなり、明石を含む公使館員はスウェーデンのストックホルムへ移動しました。司馬遼太郎著「坂の上の雲」によると、ストックホルム駅に着くと、ホームには多数の紳士や軍人が集まっていました。明石らは「これは何か?」と怪訝に思っていましたが、自分たちを歓迎する人たちだと知り驚嘆します。スウェーデンにとってロシアの侵略は脅威であり、隣国のフィンランドは既にロシアに占領されていました。スウェーデンの人々は小国日本がロシアに対して開戦した勇気に驚き、讃え、ひそかに支持し、集まってきていたのでした。明石はストックホルムを拠点に活動を開始しました。明石の活動は「坂の上の雲」(六)『大諜報』に詳しく描かれています。

 明治38年(1905年)1月におきた「血の日曜日」(民衆のデモに対して軍が発砲した事件。ロシア革命の幕開けともいわれる)のデモを指揮したゲオロギー・ガポン神父やフィンランドの独立運動活動家のコンニ・シリアスク、さらにはレーニンとも面識があったといいます。(最近はレーニンとは面識がなかったという論が強いようです)
 明石は100万円を東ヨーロッパの反ロシア勢力にばらまくことにより、帝政ロシアの根幹を揺るがします。ロシアが日露戦争継続可能であったにもかかわらず、日本と不本意な講和をせざるを得なかったのは国内の反体制勢力の跳梁が無視できないほどに激しくなったことが大きく関係しており明石の活躍が大きいと評価されています。
 
 明石は100万円すべてを使い切れず27万円を残して帰国し返納しました。使ったお金の受領書や使途の書付はきちんと残しておいたそうです。
 明石は後に第7代台湾総督に就任し、大正8年(1919年)、公務のため本土へ渡航中の洋上で病となり郷里福岡で死去しました。孫にあたる明石元紹は画家で日本李登輝友の会理事を務めています。ちなみにご先祖は関が原、大阪の陣で奮戦した明石掃部頭全登(あかしかもんのすけたけのり)といわれています。



参考文献
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「『坂の上の雲』のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
参考サイト
 WikiPedia「明石 元二郎」
添付画像
 明石 元二郎(PD)

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本記事は平成21年12月3日「明石元二郎の工作」を再編集したものです。