日本軍の仏印進駐。
昭和15年(1940年)9月23日、日本軍は北部仏印進駐を行い、翌年には南部にも進駐しました。仏印というのはベトナム、ラオス、カンボジアのことで、当時はフランスの植民地でした。ヨーロッパは大戦の真っ只中で、フランスはドイツに降伏し、ヴィシー政権が誕生していました。日本政府はフランスのヴィシー政権との外交協議により進駐しました。
なぜベトナムに軍を進駐させる必要があったかというと、日本は支那事変以降、支那の国民党と事実上の戦争状態でした。この国民党に武器弾薬食糧を援助していたのがイギリス、フランス、アメリカであり、ベトナムのハイフォン、ハノイあたりから支那の雲南省へ援助物資を送っていました。「援蒋ルート」と言います。このルートを遮断するために軍を進駐させたのです。
大東亜戦争中、日本軍はインドシナ植民地政府と共存していました。その後、日本軍は昭和20年(1945年3月)にクーデターでフランスの植民地政府・軍を追っ払い、ベトナムを独立(ベトナム帝国)させますが、間もなく敗戦となります。しかし、その結果生じた権力の空白はベトナム独立同盟に有利に作用したといわれています。こういった歴史は現在は抹殺されています。
この日本軍進駐に対して現地のフランス人はどのように思っていたのでしょう。
日本軍の仏印進駐当時のサイゴンのフランス人向けの新聞に書かれている内容(GHQ焚書図書開封2より)
「我々(フランス人)は余りに長い間、英国の番犬の役割を務めてきた。しかしもはや我々はそんな役割を務めるのは真っ平である。フランス人はロンドンという巨大な口を有する怪物のいけにえに供されてはならない。八十年と言う長い年月の間、我々フランス人は英国の思うがままに操られ続けてきた。
ウソだと思うものは歴史を見ればよい。それもさして昔の例を問う必要は無い。前大戦(第一次世界大戦)がいい例である。独逸(ドイツ)の脅迫の前に、英国はフランスとの共同戦線結成を逡巡(しゅんじゅん:ためらう)した。そのためベルギーはいち早く蹂躙されてしまった。英国が参戦した時はもはや既に遅かったのである。前大戦ではフランス170万、ドイツ240万の戦死者に対して英国はわずか15万に過ぎなかったではないか
1938年のミュンヘン会議はどうであったか。
1938年、ポーランドが危機に瀕すると、またも英国の戦争商人どもは、『フランスよ、急げ、急げ、でないと民主主義が危い』とわめき続け、フランスの尻をひっぱたいたのである。そして英国は何をしたか」
フランス人の積年の英国への恨みが読み取れます。この論文のタイトルは「偉大なる諦め」というタイトルです。
「シンガポールの英国放送によると、我々フランス人は日本との協力によって許すべからざる罪悪を起こしたことになると言うが、しからば、英国人は過去に於いてあれ程、英国と協力してきた我々に果たして一体何をもたらしたと言うのか」
日本を肯定しているわけではないが、何を言うか英国人!という当時のフランス人の感情が伝わってきます。フランスといえば現在は連合国側で戦勝国のように言われていますが、全然勝っていないんです。ドイツに敗れ、日本にも敗れたのが歴史の真実なのです。
※引用は現代かなに直して有ります。
参考文献:
オークラ出版「沖縄とアイヌの真実」『私の人生と思想』西尾幹二
徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
WikiPedia「ベトナム」
添付画像
1902 ~ 1907年頃のベトナムのハノイ(PD)
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本記事は平成21年11月2日の記事を再編集したものです。
昭和15年(1940年)9月23日、日本軍は北部仏印進駐を行い、翌年には南部にも進駐しました。仏印というのはベトナム、ラオス、カンボジアのことで、当時はフランスの植民地でした。ヨーロッパは大戦の真っ只中で、フランスはドイツに降伏し、ヴィシー政権が誕生していました。日本政府はフランスのヴィシー政権との外交協議により進駐しました。
なぜベトナムに軍を進駐させる必要があったかというと、日本は支那事変以降、支那の国民党と事実上の戦争状態でした。この国民党に武器弾薬食糧を援助していたのがイギリス、フランス、アメリカであり、ベトナムのハイフォン、ハノイあたりから支那の雲南省へ援助物資を送っていました。「援蒋ルート」と言います。このルートを遮断するために軍を進駐させたのです。
大東亜戦争中、日本軍はインドシナ植民地政府と共存していました。その後、日本軍は昭和20年(1945年3月)にクーデターでフランスの植民地政府・軍を追っ払い、ベトナムを独立(ベトナム帝国)させますが、間もなく敗戦となります。しかし、その結果生じた権力の空白はベトナム独立同盟に有利に作用したといわれています。こういった歴史は現在は抹殺されています。
この日本軍進駐に対して現地のフランス人はどのように思っていたのでしょう。
日本軍の仏印進駐当時のサイゴンのフランス人向けの新聞に書かれている内容(GHQ焚書図書開封2より)
「我々(フランス人)は余りに長い間、英国の番犬の役割を務めてきた。しかしもはや我々はそんな役割を務めるのは真っ平である。フランス人はロンドンという巨大な口を有する怪物のいけにえに供されてはならない。八十年と言う長い年月の間、我々フランス人は英国の思うがままに操られ続けてきた。
ウソだと思うものは歴史を見ればよい。それもさして昔の例を問う必要は無い。前大戦(第一次世界大戦)がいい例である。独逸(ドイツ)の脅迫の前に、英国はフランスとの共同戦線結成を逡巡(しゅんじゅん:ためらう)した。そのためベルギーはいち早く蹂躙されてしまった。英国が参戦した時はもはや既に遅かったのである。前大戦ではフランス170万、ドイツ240万の戦死者に対して英国はわずか15万に過ぎなかったではないか
1938年のミュンヘン会議はどうであったか。
1938年、ポーランドが危機に瀕すると、またも英国の戦争商人どもは、『フランスよ、急げ、急げ、でないと民主主義が危い』とわめき続け、フランスの尻をひっぱたいたのである。そして英国は何をしたか」
フランス人の積年の英国への恨みが読み取れます。この論文のタイトルは「偉大なる諦め」というタイトルです。
「シンガポールの英国放送によると、我々フランス人は日本との協力によって許すべからざる罪悪を起こしたことになると言うが、しからば、英国人は過去に於いてあれ程、英国と協力してきた我々に果たして一体何をもたらしたと言うのか」
日本を肯定しているわけではないが、何を言うか英国人!という当時のフランス人の感情が伝わってきます。フランスといえば現在は連合国側で戦勝国のように言われていますが、全然勝っていないんです。ドイツに敗れ、日本にも敗れたのが歴史の真実なのです。
※引用は現代かなに直して有ります。
参考文献:
オークラ出版「沖縄とアイヌの真実」『私の人生と思想』西尾幹二
徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
WikiPedia「ベトナム」
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1902 ~ 1907年頃のベトナムのハノイ(PD)
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本記事は平成21年11月2日の記事を再編集したものです。