世界は一であるか多であるか、決定されてゐるか自由であるか、物質であるか精神であるか。このやうな形而上學的問題についての論爭は終結することなく絶えず繰り返されてゐる。プラグマティズムはかくの如き場合そのおのおのの觀念をそれぞれの實際上の效果を跡づけることによつて解釋しようと試みる。他の觀念でなく一の觀念が眞であるとすれば、それは我々にとつて實際上どのやうな差異をもたらすであらうか。相容れない二つの觀念がもし實踐的歸結においてなんらの差異をも示さないとすれば、兩者は畢竟同一のことを意味するのであつて、そのときには一切の論爭は無駄である。もし論爭が眞面目なものであるならば、そこに或る實際上の差異が生じ得る筈であり、そして我々はそれによつていづれの觀念が正しいかを定めることができる。眞理の標準となるのは人間の實際的生活にとつての有用性(utility)である。ひとつの思想の意味を展開しようと思へば、我々はただそれが如何なる行爲を作り出すに適してゐるかを決定しさへすればよい、その行爲が我々にとつてその思想の有する唯一の意味である。物についての我々の思想において完全な明瞭性に達するためには、我々はただそれが考へ得べき如何なる實際上の效果を含んでゐるかを考へてみることを要する。このやうな效果についての我々の觀念が、苟もそれが我々にとつて積極的な意味をもつてゐる限り、その物についての我々の觀念の全體である。
