私の住んでいる近辺には、

 

 

 

 

椿に由来する地名が幾つかあります。

 

橿原市の東隣、桜井市三輪の椿山、

三輪山の南側の海石榴市(ついばいち)、

 

橿原市の南側、御所市の吉野口辺りの巨勢山には、

 

「巨勢山のつらつら椿 つらつらに 見つつ偲はな 巨勢の春野を」

(萬葉集56)

(巨勢山につらなって咲いている椿、この椿を見て偲びましょう。

巨勢の春の景色を」

と詠まれたように椿の群生の山がありました。

 

桜井市の北にある三輪山には、

「三諸は、人の守る山、本辺は 馬酔木花咲き、末辺は

椿花咲く うらぐわし 山ぞ 泣く子守るやま(萬葉集3222)

(三諸山(三輪山)は、人が大切に見守る山、麓の方には馬酔木

の花が咲いており、

山の上の方には椿が咲いている。美しい山である)

という歌が歌われています。

 

 

桜井市(旧・磯城郡)の三輪山の峰は東の方に連なりますが、

途中の金屋あたりの山は、現在でも椿山

と呼ばれています。

 

また、三輪山の大神(おおみわ)神社の摂社の玉列(たまつら)

神社の参道の両側には椿の木が植えられています。この神社は

ある時期には玉椿大明神と呼ばれていました。この神社の主祭神は

玉列王子神であるが、銘々の起源は不明ですが、椿が神の木であり

「列」という文字が使われていることから、「椿つらつら」という

万葉集表現と似ています。

椿は、万葉集で、

「あしひきの八峰の椿つらつらに」(萬葉集4481)と

歌われているように、

椿は群生して育てられていました。

 

さて、

 

一般的に「海石榴市(ついばいち)」を三輪山の南麓金屋集落

あたりとし、ここで歌垣が行われたという歌があります。

ここは長谷川(初瀬川)と三輪の山の間であり、それほど広い

地域ではありません。

 

その南が、桜井市街地です。

 

三輪山山麓を流れる初瀬川を渡ると、

その南一帯は、現在の桜井市、広範な経済商業活動の行われている広い

ところです。

 

今も、材木の集積地で、大きな商業地帯であり、各地から人々が集まる

ところです。

 

さらに、藤原宮の貴族が各地へ行く時に、

船に乗る港で、今でいう国際港でした。

 

裴世清が下船したのもこの辺りです。

ここで船に乗り、大和川を進み、

 

亀の瀬を超えて、河内(大阪)に至ります。

 

桜井市は、大和の商業活動の中心地でした。

 

こういうところに人々は集まり、芸能活動も盛んにおこなわれていました。

歌垣も芸能活動です。

 

歌垣は沢山の人が集まる盆踊りのような行事です。

 

奄美大島では、

今も盛んで、

 

男女が、大きな円陣を組んで、

村の各地のチマタで歌掛けをやっています。

商業活動とともに、

芸能活動も盛んであったと思われます。

 

その経済活動の一つが椿油です。

 

『大同類聚方』(だいどうるいじゅうほう)という昔々の

薬学の本には、次のように書かれています。

 

椿の葉は、灰にして紫色の染料にした。また

不老長寿の薬にもしていました。

また祭祀の明かりにも

調髪にも使われていました。

こういうことで、昔は、椿は重要でした。

 

この桜井市は、大和の最も古い都市です。

九州から渡ってきた神武天皇が、

この地で、国つくりを始めました。

そのときにつけた御名が、

和名である「カムヤマトイワレヒコ」

「カム=神」

「ヤマト=大和」

「イワレ=由来」

「ヒコ=男」

という名前が付けられました。

JR,近鉄の桜井駅の南方に、今も

「イワレ」が地名として残っています。