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今日のジョナサンでの会話のまとめ。

表現力、表記力的に伝わらない部分は勘弁。

記憶力の問題で誤差があるのも勘弁してください。


ウォディチコのプロジェクション

稲葉「芸術ってああいうふわふわしたものでもいいんだよね。こういうもの、って言葉にするんじゃなくて」

望月「あのプロジェクションの中でも、語り手の言葉が話し言葉のまま書かれてて、それがよかったのかも」


人文祭

稲葉「人文祭もはっきりした形じゃなくて、ふわふわした感じ、場所の提供って感じでいいと思う。でも、思うのは、人文祭っていう明らかな形にしちゃうと4組の写真展みたいに一度作った後壊さなきゃいけなくなる。期間を決めるんじゃなくて、ずっと展示して発展させていくのがいい」

望月「でもそれってほかの大学呼ぶとしたらすごくやりにくいよね。諒が興味持ったのは空間だから、余計にそういう場所とかの制約が大きくなる」


どの範囲でやるべきか

稲葉「人文生に、他大生、高校生」

望月「この間スタジオ関連の集まりで、院生が人文祭いいねって言ってた。あと人文と関わるならほかの学部からだっていいはず」

稲葉「マルチの人が入ってくれる可能性が大きいところが強み。でもそれだけでは終わらせたくない。問題は人文生がどれだけ加わってくれるか。それを引き込むのはこちらの腕次第。あと他大生にどう説明するかも重要」


人文生を引き込む

望月「どうして写真展やるにしても、活動に参加する人としない人がいるのか」

稲葉「それは意識、能力、自信の問題」

望月「あとマルチとか国共って分かれてるのが原因だと思う。おれは国共だから関係ないぜみたいな」

稲葉「いままで思ってたのはマルチと国共の共通部分が人文。でもほんとはマルチと国共の共通部分、マルチ、国共、このすべてが人文。いままで違和感があったのは共通部分に入りきらなきゃいけないって思ってたから。いまはあんまりいないけど、共通部分の人が出てくれば人文として一つにして考えられる。それを人文祭ではやりたい」


人文祭はどういう形式か

稲葉「メディアホール借りてディスカッション。野音とか7号館使って発表」

望月「おれが思ってたのは学校祭の、店の部分を展示に変えたような感じだったんだけど」

稲葉「それって面白いの? ディスカッションして、学生がしゃべったり教授に話してもらったりしながら進めて、その一環で発表したり、宣伝すればいいじゃん。パネル形式にしたり。ただ、あんまり硬いのはいや」

望月「確かにそれのほうがいいね」

稲葉「爆笑問題に来てほしい」


授業を乗っ取る?

望月「授業を乗っ取るって聞いたけど、それには反対。授業でやるってことは全員に聞かせるってことで、そもそも全員が全員人文祭に興味持ってるわけじゃないじゃん」

稲葉「でも教授の話だって興味ない奴は寝てる」

望月「教授は教えるためにやってるけど、おれらはそうじゃないっていうか。全体の前だとやりたくない人にも聞かせることになる。それはおれらが嫌がったこととと同じこと」

稲葉「教授の授業だって本質的には同じでしょ」

望月「考えがまとまらない。考え直してくる」


意味あるのか

望月「文化リテラシーの場で発言しないのは、自分が何を言っても変わらないと思ってるから」

稲葉「要は自信<能力だからだな。成功率しか求めてない」

望月「でも多分内心では自信もあるし、能力もあると思ってる」

稲葉「自信<能力だからそう思いたくなる」

望月「前回の問いかけはツイッターでやたら反論されたけど、それはやり方に対する不満だけだった。彼らはきっと人文祭自体には興味持ってくれてる。でも興味ない人もいる。それっておれたちがやってるの見て、『あいつらはああいってるけど、おれはおれであいつらとは違った自分の出し方あるし』って思ってるんじゃない?」

稲葉「逃げ道の正当化」

望月「そうそれ」

稲葉「文化相対主義はダメだな」

望月「で、人文祭をやることの意味を聞いてくる」

稲葉「意味はない。室井先生のバッタも、ウォディチコのプロジェクションも結局は直接の意味はない。そんなんなら、生きてる意味はあるのかって話になる」

望月「実際、おれらもやりたいことはばらばらだからね。学校祭ののりとは違うけど、成し遂げること自体が目的でもあるね」

稲葉「結局、質問されたらそいつに生きる意味を聞いたらいい。人文祭のコンセプトだって、『コンセプトはありません』でいいじゃん」


 ONE PIECEを売ればもうかるなんて甘すぎる。


 どの店もそんなことばかりやっていて、どこに行ったって同じようなものしか置いてない。


 何を売ろうが構わないが、あまり愉快なものではない。


 ONE PIECEブームになったとたんに商品を置く店も、それを買う客も、漫画を絶賛する連中も、地震のとたんに反原発で菅さんを責める連中を彷彿とさせる。


本当に更新する暇がなくなってしまった。

というのも、バイトがいそがしい。


前にも書いたような気がするが、テレビ局と、教科書出版社でのアルバイトをしている。


出版社とはいっても、小論文の添削指導員である。まだ駆け出しなので枚数も少ないが、なにぶん慣れない仕事であるので時間もかかる。


高校生の小論文を家で添削する仕事なのだが、これはかなり労力を使う。

仕事だから当たり前かもしれないが。


まともな文章を書いてくる人のを見るのならいい。しかし、すべての高校生がそんな見事なことをしてくれるわけではない。


一週間に高校単位で十数枚(少ないほうだ)の原稿用紙に赤ペンを入れていく。

なかには面白いことを書いてくる人もいるのだが、たいていの意見は学校で習った「偽善」の写しだ。


感謝することは大切。

確かにそうだが本当にそう思っているか?


嘘でもいい。ただ、どこかに嘘だと思っている証拠を隠してはどうだ。

みながみな、自分はいい子だと思って、偽善ばかり書いてくる。

しかもその内容が一緒だ。

コピーなのではないかと不気味でさえする。


ぼくはほんの数か月前まで高校生だったが、こんなところでも自分を通す生徒だったと思う。

結局独りよがりになってひどい指導を食らうわけだが、そのほうが読んでいて面白い。

 かなり更新が空いてしまった。

 いまぼくはいくつものことを掛け持ちしているのであって、それに忙しくパソコンを開く暇がないのである。


 テレビ局のバイト

 教科書出版社のバイト

 授業

 ソフトボールサークル

 留学生支援団体

 学校のクラス発表

 学校のクラス企画

 村づくりの企画


 村づくりの企画とは、名前の通りだが、学校で有志を集って自分たちの村を作ろうという企画だ。

 これをやっている大学はほかにもいくつかあるが、そこでは職員や地域住民の誘いというかたちで村を作っている。これは、自分たちが作ろうと思った後にしったことだが。


 だから彼らには力がある。

 教師が一声かければ学生がいくらでも来るだろうし、バックグラウンド、地域住民からの信頼、権力、財力、それらがある程度用意されている。もちろん、それだからまったく苦労していないとは言わない。

 村一つ作るのに、どれだけの苦労がなされたか、話を聞いただけだがわかっている。


 ぼくたちになく、彼らにあるもので一番大きなものは土地だ。

 金がない大学生に土地は買えない。借りることしかできないが、これも難しい。

 無償提供という形にするしかないが、何年か経って、返してほしいと言われたらどうする?

 結局、金だとか力というものの大きさを知る。


 YAHOO知恵袋にも投稿した。

 しかし返ってくるのは知った顔をした連中の的を射ない説教ばかりだ。

 中には、本当にためになる意見もあり、それには感謝している。

 しかし、ろくなことを言うものではない。

 難しいだの、無謀だの。

 そんなことはわかっている。

 中には逆に、難しいからあきらめるなんて根性なしだ、というような勘違いした輩の説教まで始まる。

 検索してみれば見られるはずだが、こちらとしてはそのような意見を出されることが屈辱なのだ。


 村というのはもちろん市町村のことではなく、交流の場のことだ。

 なんのために作るのかは、いろいろだ。それは、あいまいなのではない。

 個人個人がやりたいことを、やりたいようにやればいい。

 なぜ村の形をとるのかといえば、村としての意識を持ち、個人のやりたいことを全員で協力してやるためだ。


 とにかく、土地がほしい。

 山の中でも、辺境の地でも構わない。

 本気でやっている人々を前に、力という壁が立ちはだかっている。


 当たり前のことだとは思うが。


「けいおん!」というアニメがある。

 ついこのあいだまで、ぼくは「けいおん!」をオタクのアニメだといって嫌っていた。

 高校生のときのことだ。


 一年前まではAKBも嫌いだった。

 なぜかはわからないけれど、一度疑ってみるとそれが嫌いになってくる。


 いつもそうだ、と思う。

 見もせずに嫌いになっていくのだ。


「こんなアニメにはまっている若者は馬鹿」「こんなアイドルに熱狂するファンは本当に狂っている」

 そういって物事を嫌っていくわけだが、「こんな」とは、なんなのだろう。


 たぶんそれは、「こんな大衆的な」「こんな俗っぽい」「こんな下賤な」といったものだろう。

 ぼく自身、何をするにも芸術性や価値を考えてしまうタイプで、いつもそれでいろいろなものを遠ざけていく。

 大衆的な、と見下すほど、自分は個性的でもないのに。

 俗っぽい、とさげすむほど、自分は崇高でもないのに。

 下賤、と貶めるほど、自分は高貴でもないのに。

 人は他人を見下して生きていく。そうでないと不安になってしまうから。


 大学になってから感覚が変わった。もしくは変えられた。

 いままで馬鹿だと思っていたオタクに興味がわいた。

 そのほかにも、ゲイとかオネエとかいう人にも興味がある。


 見てみないとわからない。なにごとも。


 物事は二度見るべきだ。

 一度目は、批判的に。

 二度目は、好意的に。

 どれが自分にとって本当にどうなのかは、そうしなければわからない。


 何が言いたいのかというと、「けいおん!!(2期)」第20話は最高だということだ。

 あれほどに心を乱されるアニメは、見たことがなかった。