ふるさとはきれいな町でした。
小さな漁村と小さな農村と小さな商業が織り交ざった不思議な町でした。
私はこの町が大好きでした。
そしてまた、この町に住む人たちも大好きでした。
この町のみんなはお互いのことをまるで家族のようによく知っていました。
私が少年だった頃、この町にはそれは楽しい大人たちが沢山沢山いました。
通称、駒さん、東京屋、よろんつぁん、シゲ、えんちゃんなど。
どこかみんな子供みたいで素敵な大人たちでした。
その当時、昭和の終わり…。
週休2日制なんて無かった時代で…、
大人たちはたった1日の日曜日、休日をそれはそれは満喫していました。
子供や奥さん達をも巻き込んで(笑)
行事だらけの地区。
子供ながらに楽しかった。 ワクワクしていた。
正月は餅つきに始まり…。年に数回の廃品回収、肝試し、勉強会、野球大会、バレー大会、花火大会、温泉旅行だエトセトラ…。
極めつけはキャンプ。大人達はこの日の為に何日も前から仕事の合間を縫って下見や準備に奔走していた。
当時、父は大人たちがつまみにするホルモンを腸のまま肉屋から調達し、腸に付いた便を取るという役割だった。なかなかコツがいる作業であったが父が秀でていたらしい。
お金では買えない和山で見た星空は34歳になった今でも鮮明に覚えている。
毎年、キャンプのメニューはカレーで、
カレーに大量にザラメを入れるおばちゃんもいた。
恐る恐る食べるとなんとも美味だった。
朝食の納豆や卵ご飯は、家で食べるよりも不思議に何倍もおいしく感じた。
キャンプだけで大人たちは飽き足らず、毎週のように飲み会をしていた。大人達は酒飲みだけではなく、橋を作ったりと凄腕集団でもあった。
まとめ役のこまさん、情報収集や広報のきんちゃん、水道なら任せとけのシゲさん、強力のひろっさん、穴掘り山登りならえいぎっつぁん。その他にも沢山いた。歯医者の先生や教員までいた。
こまさんの作る焼肉のタレとおでんは絶品だった。
よく考えてみればその素敵な大人たちと今、自分は同じ年代になっている。
あの大人たちよりも週休2日で悠々と生きている自分は休日を満喫しているだろうか?
そうではない。全く、老人のような休日を過ごしている。
高校時代。
私はふるさとの町から希望を持って旅立った。
若かった。ずっとあの町で生きていればよかったのに。
希望はすぐに打ちひしがれ…、傷つき…、
私は幾度となく、生気を取り戻すが如く、この町へ戻った。
やはりこの町が好きだった。
夕方に駅に着くと、自宅まで暗くなった道を歩いた。近道の前タクの横の道を通って。
はやく父や母に会いたくて。うれしげに生まれ育った町を眺めながら。
夕暮れが夜と入り混じって町はきれいだった。
父や母は帰る度にご馳走を準備して待っていてくれた。
やさしい家族、やさしい町。
3・11
その町も津波で見る影もなくめちゃくちゃにされた…。
素敵な大人たちの数人は津波でなくなった
悔しくて寂しい。
あのヤンチャで陽気な大人たちの豪快な笑い声は二度と聞くことができない…。
子供の頃、何となく恐々と潜って通った鉄橋、外人さんの裸のポスターが張ってあってどきどきしながら切ってもらっていた床屋さん、ウグイを沢山釣った川、夕方に決闘した河川敷、はまなす公園、改善センター、太郎どん…。数え切れないほどの沢山の記憶がめちゃくちゃにされた。
沢山のものを奪った。私や大人たちが愛してやまなかった町。
あの美しい町並みや景色はもうみることもできない。
津波に遭いながら外観が残った小学校…
今は大量の瓦礫が置かれたグラウンド。
運動会を思い出す。
あの大人たちは朝も空けぬうちからレジャーシートを敷いて「陣取り」をし、地区の子供達を応援した。
当時、足の遅かった私を「ベゴ(牛)にブレーキ」と叫んで笑っていた大人たちの声が懐かしい。
母がレモンジュースを作ってくれた。それが運動会の楽しみで、いまだにリクエストすることがある。
モドリタイ、モドレナイ、
書きながらも涙が出る。
せめてもの願いは。
津波の犠牲になった大人たち、病気で旅立った大人たちが、
向こうの世界でまた豪快に笑って酒を飲んでいてほしい。
昭和の終わりの素敵な時代、
あの町で過ごしたように…。