今回は「身体に苦痛を与えることによって、自己正当化を求める行為」

を紹介いたします。

 

私たちの

    対人的な社会生活を送っているときの自分の思考と、

    自分一人でいるときの思考

は相違する部分を持っています。

 

人と接するときには「相手」の存在を意識しますから、

    独善的な考え方をしたり、

    独善的な行動をとること

が不適切であることを知っており、

所属集団の中で、そのことが禁忌されていることを感じています。

 

これに対して、一人で部屋にいて何かを考えているときには、

    「相手」と対面していないわけですから、

この時間やこの空間においては「私」が「私そのもの」を出して

思考したり行動することができます。

 

誰からの指示も受けないし、

誰に指示もしないし、

誰の影響も受けないし、

誰に影響も与えない・・・

 

所属集団に対して孤立しているわけですから、

自が持つ規範に従って思考したり行動します。

 

誤解のないようにあらかじめ断りますが

    「一人でいるときは、悪いことを考えることもあるし、

     悪い行動をとることもある」

であるとか

    「一人でいるときは、悪いことを考えてもよいし、

     悪い行動をとっても構わない」

とは、どこにも論じてはいません。

 

思考や行動が、自以外からの何らの影響も受けない状況が有るだけあり、

それ以外の状況を含みません。

 

対人的な社会生活を送っているときの規範となるものは、

    多く要求される社会の規範と

    少なく要求される自の規範

を並立させています。

 

一般的に社会の規範と自の規範の多くは共通しています。

 

齟齬するのは「社会の利益」と「自分の利益」が一致しない部分です。

 

対人的な社会生活で一般的に目指されるのは

    「より多くの構成員の平等な利益」

です。

 

しかし自分一人だけに目指されるのは

    「自分の利益」

が大きくなります。

 

良悪を論じているのではありません。

自分は「自らの利益を優先する」ということです。

 

自にとっては自分が大切なことに違和はありません。

自己保存の本能的な思考や行動です。

 

よって、

    社会生活を送る上での規範と、

    自分が自らの生活を行う規範

は部分的に一致しないことがありえますから、

その部分については

    どちらかの規範を採用し、

    どちらかの規範を却下

します。

 

私たちはその規範の相違からくる行為の相違を、

両者の規範の受容範囲内で行っています。

一般的には生活に困難をきたすほどの齟齬ではないのですが、

道徳を順守する心掛けが強い方は、この矛盾に苦しまれることがあります。

 

自分のとった行動が、

    一方が悪くて、一方が正しければ、

    一方の悪い行動を否定し、

               反省し、

               更生すれば

解決できるので生活上の困難を生じません。

 

これは、私たちが日常生活の上で「悪いこと」や「失敗」をしたときに反省する行為です。

一方が一方を否定できるから、勧善懲悪が完成できるので、

否定や反省や更生が完了すれば、この齟齬のあった事柄は終了できます。

 

しかし、社会の規範と自らの規範の差異があるにもかかわらず、

どちらも共に「正当」と判断される場合もあります。

 

このとき、一般的には

    「まぁ、どちらでもいいや。どっちに転んでも大きな失敗にならないよ」

と問題視されないことが大半です。

 

元々、どちらも「規範」として成立しているのですから、

正当な人間や正当な社会に起こる事柄であれば、

どちらも同じ程度に望ましい結果を生むからです。

 

自分に若干の理が多いか少ないか、他人に若干の理が多いか少ないかの違いです。

 

しかし、道徳を順守する心掛けの度合いは人によって違います。

 

順守の心掛けが厳格である方は

    「どちらでも構わない。だからどちらの規範に従ってもかまわない」と捉えず、

一方の規範を破った自分の思考や行動を強く否定されることがあります。

 

「社会の規範」を破った場合と「自の規範」を破った場合は、

それぞれ異なるのですが、似ているのは

    「生活において重要で守るべき規範を破った自分の行いを

    悪行と設定し、恥じたり否定する強い思い」

が生じる点です。

 

規範を順守する心がけの度合いを

    「社会の規範も100%正しく、守るべきである」

    「自の規範も100%正しく、守るべきである」

のような「0か100」の完全性を求められ、

    「社会の規範を60%を守りつつ、自の規範も40%守る」

ように、流動的に捉えること自体を否定されてしまうと、

    「社会の規範も、自の規範も、どちらも共に正しいこと」

なのですが、その中に「悪行」が突如生じてしまいます。

 

周囲の人から見れば

    「たいして違わないよ」

    「どちらでもいいんじゃないの」

    「適当に考えればいいんじゃない」

と思える事柄であっても、規範を厳格に守ることを正義とされる方にとっては、

    「社会の規範を60%しか守れなかった自分は『悪』である」

さらに

    「自の規範を40%しか守れなかった自分は『悪』である」

と両者から、思考や行為を否定されたと設定してしまいます。

 

自分の行動を共に評価し

    「事柄Aは60%もできたし、事柄Bも40%もできた」

    「事柄Aはよかったけれど、事柄Bはできなかった」

と批判できれば、否定と同時に肯定も行えるところを

    「事柄Aはたったの60%しかできなかったし、

     事柄Bにいたってはたったの40%しかできていない」

    「事柄Aも完全にできなかったし、事柄Bはもっとダメだ」

と設定し、自を否定のみする思考に入ってしまいます。

 

その結果、

    社会の規範にもそぐわないと設定し、

    自の規範にもそぐわないと設定し、

その状況下にある、またはその状況下に甘んじようとしている自分に

「悪」というスティグマを設定してしまい、

そもそも完全主義の傾向があるため、

即座に100%に改善する要求を自らに課し、

自罰すなわち自分に苦を課すことになります。

 

「よぉし、明日からがんばるぞ」

「次回は、この様なことにならないようにします」

「反省させていただきます」

という提案には無理がないのですが「速やかなる改善」から程遠く、

よって完全主義の方にとっては、モラトリアム自身が

    「自分に甘いという、悪しき状況」

と感じられますから採用しがたい提案です。

 

自分にとって、強い決意のもと、強い契機を持って、速やかに状況を改善する方法は、

他者から見ると「必要以上に強い罰」と見えてしまいます。

 

また、応対する方が困難を生じている方の抱えている「自罰の原因となった理由」を

把握できていなければ、

    「原因のわからない自傷行為」

として見えてしまいます。

 

しかし本人にとっては、緊急な自己改善の策として採用したものです。

 

「自らに苦を課している」現状に対して、周囲の方が奇異さを感じている現状であれば、

本人の感じている苦の理由が、それらの方には伝わっていない状況です。

 

自罰が命にかかわるような状況であったり、苛烈な状況でないのであれば、

時間をかけて、自罰の原因となった事柄を教えてもらうことからはじめます。

 

自己否定の思いが強い場合は、

    「強く否定する行動」に向かうのではなく、

    「改善の糸口を見つける行動」が社会の規範や自の規範に合致している

ことと、気付くための方向付けの援助や提案を行うことになります。

 

聞き取りが十分でなかったり、改善の方向付けではなく、

自傷行為の否定のみを行うようなカウンセリングであったり、応対であれば、

その自傷行為を一時的に止められても、似たような状況下になってしまったときに

再燃しかねません。

 

「自に課す苦」という行為は、人それぞれ独自の信条に基づきます。

これらの考え方や行いは、善であるとか悪であると他者が判断する類のものではなく、

本人自身にとっての正当な判断に基づく行いです。

 

この信条は、今回は苛烈に作用しているだけです。

この信条はある時にはこの方を堅固に支持します。

これまでの生活においては、向上心そのものとして機能してきたのです。

 

自らに苦を課すことのある方は、

幼少時から

    「よい子」

    「正しい子」

    「大人びいた子」

であることが多いようです。

おそらくこの信条が当時は良い方向に作用していたから

    「完全に良い子」

だったのでしょう。

 

周囲で見守る人はこの「完全に良い子」を支えていた「信条」を

ないがしろにするのではなく、これまでそうであったように

    「よい機能を支える大切な信条」

として価値を認め、

その上で向上につながる

    「方向性の提案」

となる働きかけをしていただきたいものです。

 

次回は「身体損傷」について紹介します。