1997年10月 第1刷発行 講談社選書メチエ

副題:秀吉能楽愛好記

 

何でこの本を読むことになったか、記憶にない。

でも、公立図書館の検索で引っかかり、予約した本。12/07に借りだしている。

 

著者の天野文雄先生。1946年生まれ、能楽史研究者。お名前だけは知っていた。もしかしたら、どこかの能会で解説などされていて、「つまらん」等と評していたかも知れない。

 

秀吉が、能楽の凄い愛好者であって、庇護し、その後の江戸時代の式楽化に繋がったことは、雑駁には知っていて、ワタクシの能楽好きも秀吉みたいじゃあ、何ぞと冗談していた程度。

 

本書を読むと、その秀吉の愛好ぶりは凄まじく、しかも、能に取り憑かれたのは晩年からであり、茶の湯の愛好より遅く、57歳頃から始まり、62歳で没するまでのわずか6年足らずのことであった。

しかし、この間、ちょうど朝鮮出兵(侵略)で九州の名護屋城に滞在していた期間からで、連日の如く能を自ら舞い、能会を催していた。ごく短期間に、10番もの能を舞うことが出来るようになったという。

現代のお能とは違って、演ずる時間もだいぶ短く、おそらく簡略化したモノであっただろうけど、ちょっこっとお稽古している身としては、驚異的なことであって、秀吉は数寄者の極みであった。

 

秀吉単独では無く、前田利家や、徳川家康も、ともに舞ったという。

利休のこともあって、茶の湯愛好は世間に良く知られたことだけど、秀吉の愛好ぶりはそこまでだったんだ。

大河ドラマなどで、秀吉の時代の場合は、利休だの茶の湯だのという話題は取り上げられるが、お能はあまり取り上げられない。

 

「のふにひまなく候」とは、名護屋の秀吉が、ねねに送った手紙だそう。

 

前代未聞の改革も行い、禁中で、武家が能を舞うなどと言うことは初めてのことであったらしい。

良く知られる醍醐の桜見物会でも、茶の湯と並んで、能も自ら舞ったのではないか、とも。

 

秀吉の弟、養子にも引き継がれ、家康にも引き継がれ、その結果能の中心地が上方から江戸に移る。

 

まあ、ともかく破天荒な能の愛好者であり、絶対的権力者であったのだ。

研究書の色合いもあって、読みにくいと感ずる方も居られようが、こういう観点からの書は、ワタクシは初めて出会ったので、とても面白く、勉強になった。

記録にとどめる。