10月11日(金)
夕方食事の仕度をしているときに、ビッグニュースが飛び込んできた。
今年のノーベル平和賞に日本被爆者団体協議会が選定されたというのである。
かねて候補者(団体)であったことは間違いないが、実際に受賞することとなると、感慨深いモノがある。
このブログは、高等遊民を目指すモノだから、そぐわない題かもしれないけど、記録しない訳には行かない。
学生時代から原水爆反対運動を行ってきた。1970年代。
この頃は、被団協はその存在すら知らなかった。
当時は、原水爆禁止日本協議会(原水協)と原水爆禁止日本国民会議(原水禁)という2つの団体に分裂し、前者原水協は日本共産党系、後者原水禁は日本社会党系という色分け。
当時のワタクシの認識では、原水禁系は、社会主義国であるソヴィエトの核兵器実験は、アメリカの核に対抗するために必要なものであって、同列に論じるのはおかしい、という違いであった(と、理解していた)。
ワタクシは、前者原水協系の組織に所属しており、広島で毎年8月に行われている世界大会に要員として出かけたこともある。だから、原水禁はソ連の核は「きれいだ」と言うのか等と批判したモノだった。
被団協と関わりを持ったのは、弁護士となり、広島長崎の被爆者認定に関する訴訟の代理人になってから。
自分としては、弁護士活動の根源に触れる訴訟であったから、積極的に、取り組んだ。無報酬かそれに近いものであったと記憶するが、そんなことはどうでも良かった。
核兵器問題に取り組むことが目的だった。
その時に、被爆者の方々と一緒に行動し、代理人になる訳なのだけど、被団協が運動団体であったので、初めて関わりを持つこととなる。
それが、学生時代に活動した原水協とどのような関係にあるのか、良く解らなかった。ただ、運動団体の神奈川被団協の事務局は、神奈川の原水協にあったと記憶している。
原水協では、原水禁との分裂の問題を廻って、2000年頃だったか、当時の吉田事務局長(全国)が日本共産党から除名されたこともあって、やや活動に幻滅を感じていたこともあって、遠ざかっていた。ワタクシは、吉田事務局長の側に共感していた。
まだ原発の危険性や、反対運動は行っていなかった。3.11後、福島原発の避難者支援の訴訟にも参加はしており、その関係で、原子爆弾や、核そのモノに対する認識も拡がっていった。内部被曝。
今この時期においては、ロシアのプーチンが公然と核の威嚇を口にし、イスラエルのネタニヤフも、イランへの反撃に核をちらつかせる状況であって、まったく、酷い。顔も見たくないトランプは、核の使用を容認するであろう。その心配は少ないと期待しているが。
核兵器反対で同じく平和賞を受賞したオバマが、ハリスを支援している。
核兵器禁止国際条約に、日本政府はオブザーバー参加すらしていない。
日本は、アメリカの属国と言わざるを得ない。
そういう情勢下においての、今回のノーベル平和賞受賞は、大変に意義深いモノであると言わざるを得ない。
これをお読みの皆さん。
広島と長崎の原爆資料館に行ったことがありますか。