12月6日(水) 国立能楽堂

狂言 『鳴子遣子』 (大蔵流 善竹家)

 シテ(茶屋)善竹忠重 アド(何某)善竹忠亮 アド(何某)大藏教義

(休憩)

能 『遊行柳』 (喜多流)

 シテ(老人 老柳ノ精)塩津哲生 ワキ(遊行上人)宝生常三 アイ(所ノ者)茂山忠三郎

 笛:一噌幸弘 小鼓:林吉兵衛 大鼓:國川純 太鼓:中田弘美

 地頭:友枝昭世

 面:前シテ「三光尉」 後シテ「石王尉」(朋満(友満)作)

 

喜多流だったけど、やはり他流派も観なければと。

 

千駄ヶ谷駅から国立能楽堂へ続く銀杏並木の黄葉が絶頂期で、美しい。天気も、前日とはうって変わって宜しく、気分良し。

 

狂言『鳴子遣子』、何回目かな。段々、狂言を数えるのが面倒になってきた。

野遊びに出た若者2人、稲が実る頃、鳥から守る小板、それを鳴子と呼ぶか、遣子と呼ぶか、賭けをする。暇なんだね。

判定を、近くの茶屋に頼むが、いい加減な判定の上、賭けにした腰の小刀を、2本とも取られてしまう。

アホか。

どうやら、正邪の判定基準は、古歌に寄るということらしい。が、狂言の中では、いい加減な古歌が登場する。何を言いたい狂言なのだろう。何が面白い狂言なのだろう。

 

能『遊行柳』、2度目で、前回は2021年7月の梅若定式能。前回のブログを見てきたが、良かったように書いてあるから安心して観に来たのだけど・・。

前シテは老人だし、後シテも朽柳の精だし、どっちも、老いている風なのです。つまり一貫して、若者風でも、派手でもなく、白黒の世界。

シテは、そういう老風を表さねばならぬのでした。

 

遊行上人、というのは個人名ではなくして、一遍上人が開祖の時宗の指導者のこと。十念という、念仏だけを唱える。

その何代目かの遊行上人が、陸奥を回り、白川の関に来ると、一人の老人前シテが現れて、先代の遊行上人はこっちの古道を通ったと教えて導く。そこには、朽ちた老柳が植えてあり、後シテはその精。草木国土悉皆成仏の教えの通り、遊行上人の念仏によって成仏できて、うれしくて、舞う、というストーリー。

 

前シテも、ヨロヨロと歩む。後シテの舞もフラフラするよう。観ていてハラハラする程度。

が、下に居から立ち上がるときは、シャキッと立ち上がるから、フラフラ、ヨロヨロは演技なのか知らん。

もしかしたら、名演技か。

序ノ舞は、長~くて、ヨロヨロハラハラばかりで、正直退屈でした。

詞章も難しくて、理解困難。

地頭の友枝昭世先生のお声は、よく聞こえない。

全体で110分。

生あくびばかり出る。どうして前回は良かったのだろうか。前回のシテは梅若会の小田切さんで、若い方。今回のシテは塩津さん、1945年生まれ、78歳かな。

だから、今回の方が、老人や老柳を表現するには相応しく、ひたすら退屈だったのは、ワタクシの能力不足なんでしょう。

 

草木がシテとなる作品は、思い浮かぶだけで、『高砂』の松、『西行桜』の桜、『芭蕉』の芭蕉、『杜若』の杜若、それにこの『遊行柳』の柳。外にもあると思うけど。

老人風は、『高砂』の老松と、この『遊行柳』の朽ち柳、だな。

 

フムフムと、何だか不思議な気持ちで帰路へ。寿司屋でしこたま飲む。