7月5日(水) 国立能楽堂
狂言 『水掛聟』 (大藏流 山本東次郎家)
シテ(聟)山本則孝 アド(舅)山本東次郎 アド(妻)山本凜太郎
(休憩)
能 『砧』・梓之出
シテ(芦屋の妻 芦屋の妻の霊)観世銕之丞 ツレ(観世淳夫)
ワキ(芦屋何某)福王茂十郎 アイ(下人)山本東次郎
笛:藤田貴寬 小鼓:飯田清一 大鼓:河村眞之介 太鼓:前川光長 地頭:浅井文義
面:前シテ「深井」 後シテ「痩女」 ツレ「小面」
今年の7月の国立能楽堂は、この日のみ。どうも最近観世流しか観る気がしなくて、良くないことなんだけど。
狂言『水掛聟』、何度も。我田引水。水掛け論。
舅と聟が、隣り合う田で水の取りっこをして、水やら泥やら掛け合う喧嘩になり、最後は組み合う。そこに登場したアド妻、聟の妻であると同時に、舅の実の娘でもある。そこで、双方から味方をしろと言われるも、遂には自分の夫=聟につき、実父=舅を投げ飛ばすに助力し、手を取り合って去る。
最後のアド舅のコトバ、捨て台詞、確か「祭には呼ばない」はずだったけど、今回は「将来が良くないぞ」と変えた。
なんか、祭に呼ばないというのが、村の掟というか、村の中では実力者であろう舅の地位が分かって、良いような感じ。
和泉流と大藏流の違いかな。
能『砧』、3回目、良くわかっているお能のつもりだったけど、今回の感想は、難しい曲、でしたね。
ストーリーの誤解があった。
3年も地元の九州芦屋に戻れない何某。領主に近い人物。今年の年末には帰ると伝えるために、ツレ夕霧を先に帰す。寂しさのあまり、帰ってきて欲しいから、砧を打つ。ここで、蘇武の故事が出る。
打っているときに、年末にも帰れないという新たな使者。落胆して死んでしまう。ここは落胆だけだと思っていたが、夫の心変わりを恨むのだね。
驚いて帰国する何某。梓弓で霊を呼び出すが、ここでも、後シテは怨みを語る。残念でならないという嘆きだけかと思っていたが、詞章には「邪淫の業」というコトバが出てくる。寂しいとかだけではなくして、邪淫戒に反して、そこまで夫に執心を持ってしまっている、怨みの世界に入り込んでしまった、ということなのでした。
それが、法華読誦の功徳により、成仏できた、ということでした。
そんなに、夫に執心してはならないということ。
難しいと感じた理由その2。
申楽談儀によると、「静かなりし夜、砧の能の節を聞きしに、かやうの能の味はひは、末の世に知る人あるまじ」と世阿弥が言ったとか。これは能『砧』を紹介するときには、ほぼ必ず引用される語句だけど、前半は引用されず、後半のみ引用されることが多い。
要するに、『砧』の中心は、謡の節付けであって、舞は多くはないということ。相当、詞章を読み込み、声を出して謡ってみないと良さが分からぬ、ということ。
有名な「砧之段」の謡。この予習が足りなかった。パンフの解説では、「面白の折からやな」から「砧之段」に続く一連が、名文と音曲、所作でクライマックスだという。まあ、要するに、詞章を読み、謡って始めて分かる良さ、ということ。林望先生の言う通りかも知れない。
予習不足でした。
銕之丞先生、今回は、やや体調・具合が悪かったか。詞章を数度間違えたし、一度は絶句しそうになり助けて貰う。所作も、迫力に欠けるというか、オーラがなかった、というか。
生意気で済みません。カマエの時に、左手がダラリと下がる気がして。左手のシオリなどはちゃんとしていたので、左の麻痺とかいうことではない。
アイの山本東次郎先生。狂言にもアドで出演し、お能でも出演する。あのご高齢のうえ、膝が悪いのに。狂言と能のダブル出演は、初めて観た。
立ち語りで、淀みなく。素晴らしい気力、体力。