6月10日(土) 国立能楽堂
解説 『源氏物語の風韻を味わう』 林望(作家・書誌学者)
狂言 『惣八』 (大藏流 茂山家)
シテ(惣八)丸石やすし アド(主人)網谷正美 アド(僧)松本薫
(休憩)
能 『半蔀』 (観世流 観世会)
シテ(女 夕顔の女)寺井榮 ワキ(安居の僧)江崎欽次朗 アイ(所ノ者)茂山千之丞
笛:野口亮 小鼓:観世新九郎 大鼓:亀井実 地頭:中島志津夫
面:前・後「節木増」
林望先生の解説、つまらないかと思ったら、面白かった。
「源氏物語」の夕顔の巻の冒頭部分を、句読点や、カギ括弧を付けた状態の原文で資料として交付。それに、自分の謹訳「源氏物語」を載せるように、読む。ふむふむ、こういう風に訳されているんだ。勿論原文は高校時代に打ちのめされて読んでいないが、現代語訳も寂聴のモノを1回半読んだだけなので、林望訳もなかなかよろしいではないか。
入手してみようか。
たまたま図書館で林望先生の「これならわかる、能の面白さ」という本を借りて読んでいた。彼は、観世流で謡のお稽古をしている(た?)。そこで見えてきたモノ・・。
「謡曲の美は、文字を読んだだけではわからない。自分の目で読みながら、同時に「うた」の形で朗唱したときにはじめてわかってくるリズムや「色合い」があるのである。」
「つまるところ能の詞章というものは、こういうふうに文字(詩)と音楽(歌)とが相俟って、豊かな上にも豊かな空間を描き出しているのだということが分からなくてはいけない。」
「能の詞章は、日本語のもっとも凝縮した姿、その美の精華であると言っても良い。」
「ここに凝縮している言語美を、自らの耳と心と脳みそをフル回転させて味わい尽くす、そこにはじめて、能はほんとうの「美しさ」を垣間見せてくれるのである。」
この文に対して、まさに、我が意を得たりと膝を打っていたのでした。そうです。詞章の読んだ意味だけではなくて、声を出して謡い、聴くことによる美しさと、深さがあるはずなのです。節付けの功妙さ。語りとの区別。ツヨ吟とヨワ吟。マワシ、イリマワシ、等など。詞章の意味を取るように。
なんだか、能楽鑑賞記ではなくなってしまったが、狂言『惣八』、何度も。
が、どうしたことか、眠くて仕方なく、やっと舞台を目で追っている状態。元料理人の僧と、元僧の料理人が2人雇われて、交替して仕事をする話だけど、どうしたことか眠い。
狂言でここまで眠くなるのはどうしてかな。役者の出来とは言いたくないが。
能『半蔀』、2回目だけど、1回目は2022年2月の式能第2部で、殆ど寝てしまって撃沈したとブログにある。
さて今回は。いや~、宜しかった。
前場は、雲林院の僧が、夏安居明けの立花供養をしていると、前シテ女が現れて、何やら仄めかして消える。
間狂言語りで、源氏物語の夕顔の巻の前半が語られる。
後場は、夕顔・ひょうたんで覆われたようなあばら家の作り物が出されて、後シテが中に入り、光源氏らしき中将との出会いが舞われる。優雅で優美な、クセ舞、序ノ舞。また作り物の中に入ってしまう。
夕顔は、光源氏に何某の院に連れて行かれて、一夜の契りを結んだ後で、急死してしまう。そういう自らの生き様に、供養を願うのか。
シテの寺井榮さん、1947年生まれの75歳くらいか。ハコビや佇立でやや振れるけど、舞は、さすがに素晴らしい。きちっと型を決めつつ、女性の優美さも醸し出す。
今回改めて感じたのは、狂言方の役割。間狂言語りが上手に行くと、物語がキチンと分かるだけではなくて、盛り上がる。
今回は、狂言が面白くなかっただけに、間狂言が引き立って見えた。茂山千之丞、コント風ではない語りも、十分出来る。
苦手な曲だった『半蔀』。苦手を克服できた。林望先生の解説のおかげ。風韻を味わう。