前回、「小鼓のお稽古始めちゃった」を書いたのが、4月のこと。
3月2日と3月16日、4月6日の小鼓お稽古風景を書いて、とにかく頭が混乱していると書き、最初習っていた『熊野』ロンギが終わった段階で、お稽古を継続するか、見極めようと思っていた。
要は、才能というか、合うか合わないか、の話しであって、かように、謡と違って無機的は打音では、楽しくない、辛いだけ、ストレスが溜まるだけでは、趣味の世界として無意味と思われた。
4月20日のお稽古で、『熊野』ロンギを通して、録音させて貰った。この世界では「入れる」というのです。要は、お手本として、通して先生が打って、それを見本にして、家でお稽古するというモノ。
これで初めて、全体像が見えて、まあ、目標が定まる。
それを何度も聞き取って、八つ割り表に書き写し、書き込んで、先生の音(打音、掛け声)と見比べて、理解する。
これで、『熊野』ロンギが出来なければ、止めるかも、ということ。
ある人から、伴奏ってそんなモノでしょ、伴奏だけでは面白いはずがない、主旋律と相俟って、全体としてできあがるモノ、従って、伴奏たる囃子が無機質的な打音と掛け声であっても、良いのだ、とアドバイスされる。
若い頃流行ったフォークソング、みんなアコースティックギターを抱えて、「君の行くー道はー」とか、「友よー」「今日の日はーさよーなーらー」なんて歌いながら、できるモノはギターを抱えて、A7とか、Aマイナーだとか、和音を鳴らしていたなあ。ボクは、まったく弾けなかったからわからないけど・・
そんなA7とか、なんとかマイナー、なんてのは、それだけじゃ、全然音楽的な意味をなさない。
組み合わせ。
また、指揮者のいない第9演奏会って企画をNHKでやっていて、表だって良く聞くメロディーとは別に、伴奏的に、ベースとか、クラリネットとか、弾く人も多くて、指揮者がいれば、極端に言えば指揮者任せでタイミングとか取れば良いのだけど、指揮者がいないと、他の人の鳴らす音を良ーく聞いて、合わせないと行けない。
囃子方も、同じではないか。
チ、ヨ、チ、ポ、ホ、ポ、ホ、ポ。これはツヅケっていう手の覚え方というか、口で表したモノ。観世流です。昔はこういう口伝だったか。チの打音、ポの打音、間に散らばるヨやホは掛け声。
これだけだと、極めて無機質なのだが、有機質の謡と合わさると、全体として、素謡より大いに盛り上がる、と言う訳。情景も見やすくなる、と言う訳。なるほど、それが囃すと言うことか。
あくまでも、謡が基本で、前提。その謡を囃す。
ここで、少し楽しくなる。
5月10日のお稽古では、まあまあ、『熊野』ロンギを小鼓で囃すことが出来るようになる。自分でも気持ちよい。
まだ、完璧ではないし、そもそも、小鼓の打音には、チの音、プの音、ポの音があって、もっとあるのだけど、『熊野』ロンギではこれだけなのだけど、その打ち分けはまったく出来ない。
だから、不十分であって、出来ましたって言うにはほど遠いのだけど、先生は、出来てます、次の曲に行きましょう、なんて・・。
ええ!これで良いのか、と思うけど、次の曲何が良いか、リストから選べと言われて、じゃあ、わかる謡で『竹生島』クセで良いですか、というと即採用。
まず、これを入れておきます、とおっしゃる。若干の解説も含めて。これで次回までに練習しろと言うことだな。
『熊野』ロンギ終わっちゃって、止めるタイミングが取れなかった。というか、この時点ではもう少し続けるか、と言う気になっていたから。
仕方ないので、自宅でお稽古して5月25日のお稽古。半分くらいは、まあまあ打てるかなって言うところまでにして、お稽古へ。
じゃあ始めますと、最初から最後まで。後半は出来る訳ないです。
でも、この過程でわかったこと。こういう初心者へのお稽古は、仕舞でいえば「型」を教えるようなもんで、仕舞の「型」のつもりで、小鼓の「手」を打っていけば良いんだと。
曲の仕上がりなんて、まだまだの話しで。
現在習っている仕舞だって、最初のスタートは「型」だけの練習から入りはしたが、一応出来るようになって、仕舞を舞うようになってくると、その「型」が基本になって、謡に合わせて舞っていくのでした。そのなかで、何度も基本的な「型」を振り返り、確認しつつ、仕上がっていくのでした。
だから、次の練習曲に入って良いのです。その積み重ね、でした。
高等遊民、能楽中毒者。ますます病膏肓で、小鼓お稽古もすぐには止めないでしょう。
謡と仕舞、小鼓。大変だあ。
9月に予定されているお稽古会・浴衣会には、出席しない、パスでお願いした。だって、無本でやるって言うのだけど、絶対に覚えられないモノ。連吟でも無本ではやらないし。もうすぐに、古稀を迎える高齢者。