2月18日(金) 国立能楽堂

プレトーク 橋本麻里 『中国から日本へ、転変する王昭君の物語』

(休憩)

狂言 『文山賊』 (和泉流 三宅家)

  シテ(山賊)三宅近成 アド(山賊)三宅右矩

(休憩)

能 『昭君』 (観世流 宗家)

  シテ(白桃 呼韓邪単于)寺井榮 ツレ(王母)坂井音隆 子方(昭君)清水義久

  ワキ(里人)髙井松男 アイ(所の者)高澤祐介

  笛:藤田次郎 小鼓:鳥山直也 大鼓:佃良勝 太鼓:藤田宗久 地頭:観世恭秀

  面:前シテ「阿古父尉」 後シテ「小べし見」 ツレ「姥」

 

当日開演前にプレトークが付く企画は初めてかな。登場した橋本麻里さんは、若い美人で、素敵。話しぶりも堂に行っていて、よろしい。

本日の能の『昭君』に関して、その”王昭君”の話し。皆さん常識的に知っているのだろうか。ワタクシは、一体何のことやら、解らないで、人の名前だと言うことすら知らなかった。

なので、事前に学習してきて、大体のことは解ってきていた。その解説。それを絵画との関連でも解説して頂いた。事前学習の復習的だったけど、熊本城本丸御殿には「昭君の間」というのがあって、写真でだけで判断すると、4面の襖絵がすべて王昭君の物語が描かれている。これは驚いた。今、熊本城本丸御殿はどうなっているのだろうか。地震の前に熊本城は訪れたことがあったが、本丸御殿も行ったと思うけど、まったく記憶がない。

解説者の橋本麻里さんは、永青文庫副館長だそうで、さもありなん。

この解説は、国立劇場YouTubeチャンネルで、近く公開されると。見た方が良いかもしれない。

 

 

狂言『文山賊』初めて。

ふみやまだち、と読むのだそう。文を書く山賊という意味ですね。文とは、ここでは遺書。

狂言の幕開きが常とは違って、幕がサッと上がって、二人の山賊が荒々しく登場してくる。前が弓を持ち、後ろが槍を構える。やるまいぞ、やれやれ、と叫びながら。この登場順に理解して、弓の山賊が近成さん、槍の山賊が右矩さんか。

この雄叫びの意味の取り違えで、喧嘩になって、絶交して、勝負だ、となり、取っ組み合い、果たし合いにまで発展するが、意地と見栄だけで、実際は互いに怪我もしたくはない。

誰も見学者がいないし、ここでこのまま死んでは犬死にだ、となって、遺書を認めようと。その内容が妻子のことに及ぶと、泣き出してしまう。死にたくないのですが、意地があるので止めようとはなかなか言い出せない。

が、いよいよ了見して、仲直りする。良かったねと言う謡を謡って、終わり。

平和だ。武力衝突は個人的には意味がないと解っているのに、なかなか言い出せない。アメリカとロシア。困ったモノだ。首脳達に見せてあげたいような狂言。

 

能『昭君』も初めて。

昭君とも王昭君とも言われるが、王という姓の家。だからツレは、王母。王家の母親。じゃあ何で、前シテの父親の名前が白桃なのか、王父でも良いのに。

とにかく、中国4大美人だそう。楊貴妃と並ぶ。戦前まで、ある意味で世間では知られた女性であったらしい。知らないのは、恥ずかしいくらいの。

前漢の元帝の時代、異民族の匈奴(胡国と詞章には出てくる)の王に、後宮3000人の美女から選ばれてしまって、匈奴の王、呼韓邪(こかんや)の妻として、異国に送られる。

単于(ぜんう)というのは王様の称号で、後の時代には、ハーンなどと言われているのと同じ。こんなことも解らないのですよね。パンフレットに、後シテは呼韓邪単于と書かれていても、名前だか何だかも解らない。まったく、能を知ってから歴史にも知識が広がっていく。

その王昭君には、選抜されてしまった経緯や、異国の地での生活などに関して、様々な物語が作られてきていて、日本でも、今昔物語や源氏物語にも登場するらしい。中国でも、杜甫、李白、白居易らが詩にしたらしい。

そういう翻弄されながらも、異国、異民族、異文化の地でけなげに暮らした薄幸の美女と言うことで、好んで、物語や絵の題材にされた。あるべき、婦人のありかた、ということかしら。例えば、京の都の貴人の美女が、野蛮な坂東や、薩摩に嫁に行かされるようなモノか。

こういう知識がないと、この能の楽しみが半減する。

前場は、特に、シテ、ツレとワキの語りが多いので、この王昭君の物語が下地になっていることを解らないと、面白くないだろう。これは事前学習やプレトークで解決。

後場は、まず、子方昭君の登場。清水義久君。12歳だろうか。若々しい声と動きで、目を引く。王昭君の幽霊。

さらに、太鼓入りの早笛で、おどろおどろしく、後シテ呼韓邪単于の幽霊が登場。鬼神なのです。作り物で、正中先に出されている鏡を見て、その姿に自ら恥じてしまう。このときの勇壮な舞はすごい。シテの寺井さん、良かった。

そのまま「面目なし」と言って、立ち帰る風で、橋掛かりを飛び下がっていく。

これでお終いかと思ったら、更に、子方昭君の優雅な舞もある。これは、素人でも良く解る型が多い舞。安心して観ていられました。上手でしたよ。

 

謡の節、これまでのお稽古の成果か、謡本を見ずとも、大体予想が付いて、楽しい。観世流だからだろうか。

舞も、大体の型が見えて、楽しい。

更に、先日、ちょっとだけ小鼓を触ってみたのだけど、それだけで、囃子方の打ち方などにも興味が湧いて、楽しい。

 

高等遊民。小鼓のお稽古も始めましょう。謡、仕舞も当然続けるし、能楽中毒は、いよいよ泥沼化していく。気持ちの良い泥沼ね。