11月26日(金) 国立能楽堂
狂言 『空腕』 (大蔵流 茂山千五郎家)
シテ(太郎冠者)茂山忠三郎 アド(主)茂山茂
(休憩)
能 『鵺』・白頭 (観世流 観世会)
シテ(船人 鵺)武田尚浩 ワキ(旅僧)御厨誠吾 アイ(里人)茂山千五郎
笛:成田寛人 小鼓:鳥山直也 大鼓:佃良太郎 太鼓:麦谷暁夫 地頭:岡久広
面:前シテ・千種怪士 後シテ・大飛出
◎蝋燭の灯りによる、という副題が付く公演で、見所の灯りも消して、液晶パネルの字幕表示もなく、舞台上の明かりも落として、舞台廻りと橋掛かり前の白砂に、かなりの数の和蝋燭がともされる。
去年の10月にも蝋燭灯りがあり、ブログによると、あまり評価していない。来年は行かない、等と書いてあった。
今回は、蝋燭灯りとは知らずに出かけたのだけど、良かったですよ。
狂言『空腕』。舞台で見るのは3回目という記録で、今までは和泉流だった。今回は大蔵流。でも流儀の違いは良くわからないが、暗闇の中で、京から淀へ鯉を買いに行かされる話しなので、暗闇の蝋燭灯り舞台は、雰囲気が伝わった。
暗くて、役者の顔も見えないし、手元のプログラムも読めないが、声で、茂山茂と忠三郎とわかる。経験だね。
忠三郎さんが上手だった。暗闇で、すべて敵に見えて怯える様、太刀をなくしてから帰ってきて、自慢する有様、上手に演じ別けていた。また、アド主が、実際は全部知っているのに、それで、それでとシテ太郎冠者に、次々と自慢話をさせる様も、面白く上手。掛け合いの妙。
いままで観た『空腕』の中でもフルバージョンだったと思う。45分もかかった。
能『鵺』は初めて。ということもあって、十二分の予習、詞章の解題までして、臨んだ。うかつにも、字幕表示もなく、プログラムの詞章も読めなかったけど、予習の成果か、概ね聞き取れて、理解できる。
ストーリーは、平家物語の、源頼政の鵺退治で、わかりやすく、知っている物語ということもある。同じ鵺退治の様子を、前場とアイ狂言、後場も含め、3回もやるのだから。後場は、討たれた鵺の立場から。
いくつか、感想。
これも日暮れ過ぎのことだから、蝋燭灯り能は、よろしい。
前場は、怪しげな前シテ船人が現れ、ワキ旅僧に不審がられた後、鵺の忘心(幽霊ですね)だと名乗って、鵺退治の様子を語り、舞う。シテが下に居のまま、語るのは、地謡を聞くのは、なかなか大変。地謡に併せて、仕方舞というのかしら、それも格好良く決めていた。この曲は、サシコミ、ヒラキ、左右などという優雅な舞の型はない。
シテの武田さんは、面を付けても、よく聞こえる声でした。
アイ狂言は、素晴らしい。あの10分以上の間、狂言方、今回は茂山千五郎が、はっきりと、淀みなく、語る。アイ狂言語りの重要性はもっと見直されて良い。
後場での後シテの登場。白頭の小書きによって、頭は白頭、白い綺麗な装束で、怪しさが、単純ではなくして浄化された怪しさ。この登場で、橋掛かりを出てくると、ゾクゾクする。幕外から、半幕にして声をかけて、一旦幕を下ろし、再度上げてから豪華に登場した。
舞台上での、演技というのか、仕方舞というのか、鵺退治の様子を語り、舞う。ここも素晴らしい。
最後、流れ流れて、橋掛かりに進み、浮かんでは沈み、川波に翻弄され、流されるように退出。鵺の人生を現す、素晴らしい演出だと思う。引きづられて、見所もシーンとしたまま、ワキ、地謡、囃子の退場を見守る。
ホントに、こういう舞台では、拍手はいらないとすら思った。いいよね、何もないところから始まって、囃子方などが入場してきて、色々やって、最後は、また全員いなくなる。
久しぶりに、感動したお能の舞台でした。観世。
思うに、お能は詞章の深みを理解できると、一層楽しい。例えば、この『鵺』の前場で、不審に思ったワキ旅僧と前シテとの掛け合いで、「芦の屋の 灘の塩焼き 暇なみ 柘植の子櫛は ささで来にけり」という古歌が出てくる。
これは調べてみたら、在原業平の歌で、伊勢物語や新古今和歌集にあるという。ストーリーにはほぼ関係ないから、プログラムの解説にも書かれていないが、この作詞者や、見所、役者は、当然この歌の存在や意味を知っていて、芦屋の里の、塩焼くひとの、夜な夜な出る不審の様が、目に浮かぶのではなかろうか。
こういう知識、教養が、有ると無いとでは、まったく違うと思う。
たまたま和歌を例示したけど、中世から江戸期まで、漢詩や、源氏物語、平家物語、伊勢物語や、記紀、和歌の知識がある人々の中での、お能であったんでしょう。
大まかな概要ストーリーだけではなくして、こういう詞章のディテールまで、理解したいモノだ。
そこまで進むか、高等遊民。能楽中毒。