11月18日(木)
その日は、夜、日本フィルの定期演奏会があって、神奈川県民ホールまで行くので、どうせならばと、前から招待券を頂いていた樋口一葉展へ。
樋口一葉、5000円札になった程度の知識しかなくて、まったく知らなかったのです。
更に偶々、最寄りの駅近くの図書館に本を返しにいって、その時、偶然に瀬戸内寂聴の「わたしの樋口一葉」という本を発見して借りた。ちと予習に、という訳。
それを読みつつ、電車に乗って、会場へ。活字中毒者です。
編集委員が藤沢周さん。
予習の成果もあってか、2時間ではとても足りない、充実した展覧会。
樋口一葉、本名樋口なつ。若くして、苦労して亡くなってしまったのですね。父親存命中は、それでも暮らし向きは悪くなくて、長兄も亡くなって、女子ながら家督相続して、母と妹を養わなければならず、貧困の中で、生活してきた。
基本的な素養は、和歌。明治維新前後の、女子教育は、まだまだ江戸期の名残で、上流階級では、和歌のたしなみが求められ、一葉はそれに秀でていた。
一方で、口語的な小説も流行だし、新聞小説家という新しい職業も生まれてきた。
でも、まだまだ、口語文学は難しく、一葉は、雅俗折衷体、というらしく、原文では、なかなか意味が取れない文学らしい。
読んだこともなかったのです。
珍しく、図録なるモノを購入してしまうほど、充実した鑑賞。
その図録。「わが詩は人のいのちとなりぬべき」と副題にあり。そう、小説ではなくして「詩」なのです。
こんなブログでは評論なんぞするつもりもなく、樋口一葉を読んでもいないのに、感想も書けないが、その口語体への過渡期というのが、なんとも魅力なのでしょう。
聞く文学と見る文学。
詠む文学と書く文学。
一葉の書は、現代語訳も多く出ていて、多分、現代人では意味が取れないからなのだろうが、和歌から出発している一葉作品は、コトバに出して、聞く文学であって、その調子が心地よいのだ。
同じ理由で、執筆というより、声を出して心地よいように、詠む文学なのだと思いました。
読むではなくして、詠む。この違いは、実は、同じオトで、目で見なければわからないが、やはり、和歌を詠む感じ。
平家物語は琵琶法師語りだし、源氏物語も声を出して、それを聞くのではないか。
まあ、こういう文学を、この歳になるまで知らなかったことを、恥じ入る。
図録の中で、藤沢周さんの巻頭言と並んで、田中優子さん(法政大学の元総長)の記事「それまでの一葉、それからの一葉」が、胸に響いた。
謡を習っていなかったら、ここまで関心を持たなかったと思う。古典文学の素養。今後の人生の、高等遊民的生活の一部にしっかりと。