11月10日(水) 国立能楽堂

狂言 『無布施経』 (和泉流 野村万蔵家)

  シテ(住持)小笠原由祠 アド(施主)野村万蔵

(休憩)

能 『忠度』 (喜多流)

  シテ(老人 平忠度の霊)塩津哲生 ワキ(旅僧)殿田謙吉

  アイ(所の者)野村万禄

  笛:槻宅聡 小鼓:飯田清一 大鼓:柿原崇志 地頭:友枝昭世

  面:前シテ「三光尉」 後シテ「中将」

 

3日ほど家に引き籠もりをして、鬱々としたので、予定していなかった国立能楽堂定例公演の空席を見たところ、空きがあったので急遽申込み。同日の夜には、にぎわい座の落語のチケットを買っていたので、昼公演はやめようと思っていた。

どうやら、活字中毒ならぬ、能楽中毒者になってしまったようだ。

常の中正面席が空いていたが、最後列。悪くはない。全体を俯瞰できるし、遠くなると目付柱もさほど気にならぬ。オペラグラスを使えば、細部も見える。この席辺りは、初心者はいないようで、周りは、それなりに準備してきている方たちで、心落ち着く。

 

狂言『無布施経』。『布施無経』と書く流派もあるらしいが、どっちがどうかわからない。今日は和泉流。

毎月決まったアド施主宅に祈祷に行くと、決まって布施を頂けるのに、今回はどういう訳か貰えない。シテ住持はなんとか、手を使って気付かせようとするが気付かない。最後に、袈裟を隠してまたまたアド施主宅に戻ると、やっと気付いて布施をくれる。が、みっともないからすぐには貰えない、アド施主に懐に押し込まれると、なくしたという袈裟が出てきてしまう、という。

布施は、お寺や住持にとって必要なものだけど、要求するモノではなくして、あくまでも施主の任意だ。

だから、欲しいのだけど、みっともなく要求すべきでもない、という葛藤。アド施主が気付いて、渡そうとするが、見栄で、一旦は断ってしまう。アド施主も困るから懐に押し込むと、計略がバレてしまう。この後の対応はどうか。

アド施主は、あくまでも善意で、シテ住持の策略を嘲ったりはしない。黙っている。

では、シテ住持は、恥ずかしさを隠そうと、今回は、「南無妙法蓮華教」と唱えて退場。確か、東次郎さんは「面目ない」だったか。

この辺りの心理劇は、面白い。悪人がでてこないのも良い。シテ住持を野村万蔵が演じたらどうだろうか。

 

能『忠度』、2回目。だけど、1回目は、まだまだな段階の2019年3月、横浜能楽堂の修羅能の世界企画。寝てしまった、というブログになっている。

この曲は、和歌が下敷きになって、修羅能らしく戦いのシーンもあって、優雅、優美と、勇猛と並列した楽しみがある。世阿弥作で、自信作らしい。

平忠度。清盛の異母弟。和歌を藤原俊成に習ったが、清盛同世代なので、武術も優れる。俊成は、「千載集」の選者で、藤原定家の父。和歌の家の正当な系統に習った、武士の正当なお家のモノ。薩摩守にもなる。

木曽義仲に都を追われるとき、それまで詠んだ歌の数々を、わざわざ危険を冒して都に戻って、届ける。その中から俊成が選んだ和歌が、

「さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」

しかし、これは忠度が朝敵になってしまった関係で、「詠み人知らず」として、掲載されてしまう。この歌は、本曲の詞章には出て来ないのだけど、見所の誰もが知っている常識なのですね。こういうのが教養。アイ狂言では語られる。

本曲に出てくるのは、

「行き暮れて 木(こ)の下蔭を 宿とせば 花や今宵の 主ならまし」の方。

俊成に使えていたモノが出家して、須磨の浦に来ると、そこに曰くありげな桜の木。謂われを聞くと、そこで忠度が討ち死にして、弔うモノだという。ワキ僧達が桜木の下にいると、忠度の幽霊が現れて、一ノ谷の合戦の様子を語り、その戦いの様子を舞う。勇壮に、悲劇的に。

こういう、和歌と戦い、夢幻能、修羅能、良いねえ。お能を楽しむ、新しいステップに入ったような気がする。

 

大鼓方が、お年を召していて、声があまりはっきりしないけど、枯れた雰囲気で、上手だなあ、と思って、パンフの出演者情報を見たら、柿原崇志さん、1940年生まれの81歳か。2018年に人間国宝になっていた。大鼓方には、亀井忠雄さんが人間国宝でいて、まさか同じ大鼓方に人間国宝がもう一人いるとは思わなかった。これまでも何回か観て聞いたことがあるはずなのに、わかっていなかったんだ。(と思って調べてみたら、ご子息の柿原弘和さんの出演が多いようだ。今回、ずっと後見に付いていた。)

もう一人、地頭が人間国宝の友枝昭世さん。

このお二人の存在からかな、囃子方も、地謡も、しっかりしていたように思います。

 

なんだか、感動してしまった。