11月3日(水・祝) 杉並能楽堂

『鬼瓦』

  シテ(座頭)山本東次郎 アド(太郎冠者)山本凜太郎

『月見座頭』

  シテ(座頭)山本則孝 アド(上京の者)山本則秀

(休憩)

『木六駄』

  シテ(太郎冠者)山本泰太郎 アド(主)若松隆 アド(茶屋)山本則重 アド(伯父)山本則俊

お話し 山本東次郎

  小舞 『海士』

 

杉並能楽堂。初めて伺う。行きたかったのです。これで、都内にある能楽堂は、制覇したか。

地下鉄丸ノ内線の支線のような方南町方面に乗って、中野富士見町駅から徒歩数分。住宅街の中にあって、古風な、貫禄ある外観の門扉、前庭に迎えられる。

不便な場所にあると述べられていたが、確かに、線路はチト乗り換えが多くなるモノの、平坦地であって、駅からも近く、普段横浜能楽堂に通っているモノからすると、全然ラクチン。

内部は、橋掛かりがかなりの傾斜をもって本舞台へと続いているのが、第一印象。ガラス窓が多くて、外光外気を取り入れられる、素敵な能舞台。本来、能舞台は屋外にあるモノだから。

ここで、山本東次郎家の皆様は、普段お稽古をされているのだろうかと思うと、身が引き締まる感じ。

見所は、多くが畳敷きに座布団。後方一列が椅子席。こういう形式は、代々木能舞台と、青山能楽堂に鎌倉能舞台。(鎌倉能舞台は、最近改良されて、畳敷きが少なくなってしまった。)ああ、そうだ、矢来能楽堂も後方に座敷席があったか。ワタクシは好きですよ。しかも、畳敷きが段差があって、必ずしも正座ないし胡座が必要な訳ではない。コロナ感染対策で今回は定員80名だけど、常ならばもっと入るのかな。

お能もできるのではないか。天井まで目が届かなかったけど、『道成寺』様の鉄輪が笛柱に取り付けてあった。ここで、お能も観てみたいなあ、と。

 

本題の、本日の曲。

 

『鬼瓦』、何度目か。訴訟に勝って帰国できる大名が、在京中にお参りしていた因幡堂を、地元でも模して勧進したいと、見学に行く。そこで、鬼瓦を見つけると、あれが国元の妻に似ていると、懐かしさで泣き出す。似ていること、懐かしいことは、同行の太郎冠者も同意する。

え、なんで、と思うでしょ。鬼瓦だよ。目が大きくて、口はカッと切れて耳元まで、鼻も鷲鼻。魔除けでしょ、と思うけど。魔除けに似ている妻って、何か、暗喩があるかしらと考えてしまうが、思い浮かばない。

泣いてはいけないと、2人で例の狂言笑いをしてお仕舞い。

フムム。

 

『月見座頭』、これもなぞの多い狂言曲。何回考えも良くわからない結末。ちょっと、ここで推論。

シテ座頭は、下京の者。アドは上京の者。ここにまず身分差がある。しかも、一方は、座頭であって、広い意味では庶民で、アドはもちっと地位がある。盲目のハズの者が月見の日に、月ではなくて、虫の音を楽しんでいる。そこに来たアドは、変な奴、と思ったのか。風流を楽しむような奴なのか、と疑う。

でも会って、酒を酌み交わして、一首となったときに、アドは誰でも知る古歌を自家製だと披露する。これは、シテ座頭の教養を試したんですね。対してシテ座頭は、これも有名な古歌で返す。いきなり、それは古歌ですよとは言わずに。むむむ、なかなか教養のある奴じゃ、とアド。しかも盲目なのに、舞まで舞える。

これは楽しい人と会った、ひととき楽しかったと思いつつ、ちと悔しいのですね。身分差、目明かどうかで下に観るところが、なかなかの教養人物。

最後に、喧嘩を売って、悔しさも晴らそうという魂胆が芽生えて、実行してしまい、心晴れやかになって帰って行く。

残されたシテ座頭は、驚く。まさか、最前の人物と同一だとは思わない。実際別人だと思ったのでしょう。眼が見えないから。

仕方ないなあ、と帰って行く。

常は、このシテ座頭の帰り際に、くっさめ、とくしゃみを一つ、二つする。このくしゃみの意味も解らないのですが、あれあれ、今回は、くしゃみなしで。後の解説によると、くしゃみは、してもしなくても良いらしく、芸位によると。

とすると、全体の曲意に、このくしゃみは無関係らしい。

とすると、やはり、地位のあるモノが、下に観ていたモノが意外に教養人であることに、楽しくもあり、悔しくもあり、ということかしら。どうでしょうか。

 

『木六駄』。これも何回か。大蔵流と和泉流の違いではなくして、山本東次郎家のみの、演出らしい。柱を30本、牛六駄に負わせて峠向こうの伯父宅、都の中かな、に届けさせられるシテ太郎冠者。雪の中。アド伯父は、どうなったかと様子見に峠まで来ている。出かけに上等の酒をアド主から振る舞われて来たが、峠の茶屋に着くともう覚めてしまっていて、凍えそう。アド茶屋は、丁度酒を切らしていたので、シテ太郎冠者に、ここで凍えては何の役にも立たないと、背負ってきた諸白の酒を飲んでしまえとけしかけ、シテ太郎冠者もその気になって飲んでしまって、良い気分。気が大きくなって、木六駄も酒の残りも、アド茶屋に上げてしまう。酔って寝ているシテ太郎冠者を尻目に、手に入れたモノを峠から下ろしてしまう。峠に来ていたアド伯父が、気付いてシテ太郎冠者に問い詰めると、上機嫌で上げてしまったと述べて、自分の名前は木六駄、だといいつつ、こちらも帰ってしまう。

シテ太郎冠者は、寒さと雪の中を、孤独で寂しく、木六駄と諸白を担いできたのが、不満だったのかしら。孤独と不安から解放された太郎冠者の心理劇か、とも思われるけど、それだけじゃないような。

泰太郎さんが、サーセイ、ホーセイと牛を追いつつ峠に至る時の厳しい表情、茶屋で酒を飲むとき、段々と解放されていくときの表情の変化が、見応えある。

野村万作師の『木六駄』の太郎冠者は、雪の中で登っていく厳しさ、寂しさを極限まで追求した演出と演技でした。

それよりは、狂言的というか、太郎冠者の狡さ、茶屋の狡さが強い演出かな。善人なんだけどね。

こんなとこで、如何でしょうか。

 

山本会狂言を、杉並能楽堂で観るのは、緊張する。見巧者にならねばならぬというプレッシャー。

でもさすがに山本東次郎家、と東次郎先生。きっちりした演技。

最後の小舞、またしてもウルウルしてしまった。お歳で、膝も悪いのに、きっちりと。お元気でいてください。まだまだ、鑑賞させて頂きます。

14日は、横浜狂言堂で東次郎家。楽しみです。