8月8日(日) 横浜能楽堂

狂言組 (大蔵流 茂山千五郎家)

お話し 茂山茂

『太刀奪』

  シテ(太郎冠者)茂山あきら アド(主)井口竜也 アド(道通りの者)鈴木実

(休憩)

『濯ぎ川』

  シテ(男)茂山茂 アド(女)井口竜也 アド(姑)丸石やすし

 

なんだか、茂山千五郎家でも、茂山茂は久しぶりのような感じ。お話しは、まあ、上手ですね。オリンピックとコロナを交えて、曲の紹介。落語のマクラみたいな感じかな。

 

『太刀奪』、大蔵流内でも「たちうばい」と読むか、「たちばい」と読むか、色々あるらしい。先日観た『真奪』は「しんばい」で統一らしい。今日のパンフには「たちうばい」とフリガナ。

主人が、太刀を持たずに、太郎冠者を連れて北野天満宮の祭礼に行く。持たないで来たのは、そもそも太刀を拵えていないからのよう。良き太刀が欲しいものだ、と話していた。従者を連れて、太刀を持たせていくのが、大名の格式というか、見栄なのでしょう。

すると、通りに、立派な太刀を持った人を見掛ける。その出で立ちは、庶民風で、太郎冠者風の衣装だから、大名ではないのに、左手に太刀を構えるから自分の太刀なのでしょう。ちょっと不似合い。だからか、太郎冠者が、取ってきてあげましょうと自信満々で向かう。但し、威しに使うつもりか、腰のもの=小太刀を貸せと。

で、人混みに紛れて取ってしまおうとするが失敗。逆に、そのものに太刀を構えられて、主人の小太刀まで取られてしまう。思いのほか強い奴だったんだ。あるいは、太郎冠者が頓馬なのか。

参拝の帰りに待ち伏せして取り返そうと相談して、揉めたあげく主人が後ろから取り押さえる。

後は『真奪』と同じ。縄をかけようとするが、縄を綯っていないので、綯い始める。出来ても、首を入れろだの、足を入れろだの、まともな取合いではない。後ろから捕らえろと言われて、抱える主人だけ捕らえてしまって、まんまと太刀と小太刀を持って逃げられる。やるまいぞ、やるまいぞ。

太刀が欲しいのに、金がなく拵えられない大名。身分は低いのに太刀を持つもの。その不具合かな。財力と、地位と。

頓馬な太郎冠者。

 

『濯ぎ川』、初めて。

お話しによると、戦後に社会派劇作家の飯沢匡が、フランスの笑劇を元に日本向けに改作し、狂言とした。最初の演出は武智鉄二。なかなかの人物達の作品なのです。

各流派の、持っている番組とは、明治維新までに、我が流派はこれが出来ます、というリストがあって、それに掲載されているのが最初のいわゆる現行曲。それ以前に上演された記録はあるものの、そのリストに載っていないのを復活してリストに加えたのが復曲。リスト作成後に新しく作られたのが新曲。本曲は、狂言師ではなくして、戦後に作られたが、出来がよろしいと言うことで、飯沢さんかな、大蔵流に届け出て、大蔵流のリストに加えて貰ったから、新曲ではないが、それに近いものと言うことらしい。良く解らん。

が、茂山千五郎家では、繰り返し上演されてきたらしい。その間にも、段々と練り上げられてきて、現在に至るが、いくつか、解釈や演出に違いが出てきたらしい。

ストーリーは、入り婿になった男が、ワワシイ妻やワワシイ姑から、あれやれこれやれと命じられて、困惑する話し。あまりに沢山命じられて、覚えられないから、文に書く。それに書くのが朝早く起きてから、飯炊き、起こしだの何だの、一杯一杯。

その時、川で、寒い冷たい様子だったから冬なのでしょう、小袖を洗っている。あまりに言われて、妻と姑からは、あのような男は役立たずだと言われているとき、小袖を流してしまう。

それが、過失で流すのか、意趣返しに故意で流すのか、演出があるらしいけど、今回は、過失。

なかなか取りに行かないので妻が川に入るが急流に流される。助けろと姑に言われるが、例の命じられた文に書いてあるかどうか、確かめる。姑はここでやや反省し、書いてないけど助けてやってくれ、お前が主人だと。よしと助けるが、助けられた女は、助けられた杖を逆に振り回して、夫を懲らしめる。普通のワワシイ女ではない。家庭内暴力。かわいさのないワワシイ女。

逃げる男、追い回す女。それを見た姑が、あの書き付け文を破り捨てて、丸めて捨てる。客席に投げる演出もあるらしいが、今回は、客席に投げるフリだけして、舞台上に捨てて、ゆっくり、橋掛かりを下がっていく。

なかなか面白い狂言だし、初めてだけど、いくつか違和感は残る。

ワワシイ女が、暴力的すぎて、かわいさがない。狂言のワワシイ女は、どこか可愛いところや、夫を立てているところもあって、憎みきれないが、本曲の妻は、あくまで憎たらしい。ホントに夫が可哀想。

姑が、最後に反省する態度を見せるのが救いだけど、もっと、自分の娘を責めないと、後味が悪い。

暴力シーンも、具体的すぎて、杖が夫に当たりそう。狂言は露骨な演出はしないはず。

同じ大蔵流でも、山本東次郎家はやらないなあ、と思う。

 

まあ、珍しい、考えさせる狂言でした。これを見巧者というか。