その1、その2の続き。最終回です。
Ⅳ 三番三 ー稲の精霊の舞
三番叟(三番三)は、能楽の中でも大切なもので、狂言方、大蔵流、山本東次郎家にとっても、とても大切な舞のハズですね。
東次郎さんは、前著でもそうでしたが、わざわざ一章を割いて、記載されている。
何故、大蔵流は「三番三」と書くか。一般的に、人形でも、歌舞伎でも、「三番叟」と書く。現に、このPCでも、サンバソウと入力すると、必ず、「三番叟」と漢字変換される。色々、候補を探っていっても、「三番三」とは出ない。何度か、翁を観る中で、ああ、大蔵流では「三番三」と書くんだあ、と、認識した程度。
本書に寄れば、「大蔵流ではこの老人を表す「叟」の字を用いず、万物化成の象を現す「三」の時を当てる」のだそう。
ん、まだ解らない。三って、数字や数だけでは無くて、万物化成か。何で、三が万物化成か。不明。
化成とは、広辞苑によると、①育ててその成長を遂げさせること、②形を変えて他の物なること、③化学的に合成すること、④徳化されて善にうつること、とある。ここでは、①、②、④の意味か。形を変えて、性質も上化させることか。
マルクス主義哲学をかじったモノとしては、アウフヘーベンのことかとも。でも矛盾する2つの事象の対立、変容、質的な変更のことでは無いからな。
解らない。ま、大蔵流ではそうなんだ、と。
確かに、和泉流でも、三番叟は、揉ノ段と鈴ノ段で、黒式尉面を付けるのは、つまり老人化するのは、鈴ノ段だけ。だから全体を老人を示す「叟」じゃおかしいか。
でも、若々しい、千歳の後だから、比較すれば、全体が「尉」ではないか。
良いのだ。そういうモンなのだと。
拍の踏み方が難しい、特殊だと。そうだろうな。これは素人が練習してできるようなモノでは無さそう。玄人でも100日稽古だと。
ここで、他家お芸への中傷となってしまうかもしれないが、と注記した上で、正しい伝承を考える上で必要なことなので、あえて書くとして、
「千歳(面箱持)から三番三へ鈴を渡す箇所で、千歳が後見から渡され、隠し持っていた鈴を一つシャンと振ってから三番三に渡すという型をする家がある。しかもそれを大変な習いとしているが、これは明らかに間違いだ。鈴は三番三の手によって初めて振り出されることに意味があり、たとえ一回でも千歳の手で振られることは許されない(と私は父からおしえられた)。」
ふ~む。ここまで断言するか。
カギ括弧を付けて「三番三」と書いてあるから、大蔵流の他家のことかな。
しかも、その根拠が、父から教えられたから、というだけか。
あまり納得できないけど、まあ、伝統芸というモノは、そういうモノか。
和泉流はどうなんだろうか。次回以降、よく観てみよう。
その他、興味深いことが沢山書いてあるが、全部は紹介すべきでもないので、最後に一つ。
「揉ノ段」は青々とした稲の成長期、「鈴ノ段」は稲の実りの時期。これは、農耕稲作民族の呪術として、納得。
友人から、あまりに詳しく紹介しすぎていて、図書そのものを読む気がなくなる、という指摘。
それは申し訳ない。本の売れ行きにも関わる。
このブログは、日記が主であって、いわば読書日記で、自分が感動したり感心した事項を、なるべくそのまま、感動感心のママに記述したいからでした。他者の目はあまり考えていない。公開しているから、まったく気にしていないと言うことではないけど、あくまで、従。
というわけで、さる御方から頂いた本は、もう一冊あって、野村四郎(当時、本年4月3日から野村玄雪)・山本東次郎共著「芸の心~能狂言終わりなき道」。2018年12月初版の最新本なのだけど、この紹介は、書かないか、書くとしても極大雑把に粗筋紹介程度にしようと思います。悪しからず。