玉川大学出版部 発行 2002年9月第1刷

 

先日ブログアップした「中・高校生のための狂言入門」は、2005年2月初版発行であった。その中で、これは、「狂言のことだま」の、易しく改めたバージョンではないかと示唆したけど、そうでした。

確かに、同じ内容を伝えようとはしているのだろうけど、「狂言のことだま」は、かなり高度。入門編ではない。ある程度狂言鑑賞の経歴があるヒトが読むと、良く解るのではないか。「中・高校生のための狂言入門」も、難易度高かったが。

まあ、その程度に達していると自理解して、紹介なぞしてみようと思います。

これも、「中・高校のための狂言入門」と同時に、さる御方から頂いたモノです。

 

読書する際に、「はじめに」と「あとがき」から読むことが多くて、このブログもその順序で。

読書感想文としては、超長文になりそう。

 

はじめに

「狂言は、人間が愚かしい生き物と見定め、その姿をありのままに描く古典である。」

何だか、難しそうだけど、まあ、人間の本質を描くモノと軽く理解しましょう。

 

「狂言のセリフの根底には、『言霊信仰』が確固として存在する。」

この本を読んでも、また、「狂言入門」を読んでも、科白(セリフ)が重要な意味を持つことがわかる。そうだろうとは思う。動作中心のコントではない。ただここで不満なのは、素人にはそんなに細かく科白を聞き取れないこと。

国立能楽堂でも、定例・企画公演で、液晶パネルにお能の詞章が掲示されて、とても鑑賞に役だつ。毎月刊行されるプログラムにも、お能の詞章はほぼ正確に掲載されている。事前予習も可能。また、檜書店から「対訳で楽しむシリーズ」が刊行されていて、まだ40曲程度しかないけど、観世流の詞章を中心に、現代語訳と並んで読むことができる。あるいは、能楽大全のような大図書もある。

ところが、狂言には、それに似合ったモノがない。いや、大蔵流、和泉流、大全のようなモノが刊行されているかも知れないけど、一般には入手困難。それを読めと言うことでもないでしょう。

国立能楽堂のプログラムや液晶パネルも、科白そのままではなくして、粗筋が示されるだけ。だからこの「狂言のことだま」を読んで、ああそういう深い意味があったのね、と初めて解るのです。

これは、後で個別にできるだけ紹介しますが、初めて聞くこと、が多いのです。

 

あとがき

こういう調子で始まる本書の後書き。ちょっとド素人には辛い。

「少数でもいい、ほんとうにそれを理解してくれる人、またそれを必要としてくれる人に見て頂きたいと願う者です。」

「どうぞ、ご自身の感性を磨いて、能・狂言の見巧者になってください。能・狂言は・・・・良い観客を必要とします。」

ただ、ワハハと面白く見ているだけじゃダメなのですか。それがないと、現代では、入門にならないですが。

てな、緊張感の中で、本書の中心部へ。

 

Ⅰ 能と狂言

能と狂言の始まりと、分化、共存について。

世阿弥の頃から、能が「幽玄」とすると、上手の狂言とは「幽玄の上階に達した者」と。ふむふむ。ただ笑わすだけではないのですね。本質的には共通項がある。世阿弥は、「上階のをかし」が狂言だといったとか。

古文で勉強したはずの「あはれ」と「をかし」。それが能の「幽玄」と狂言の「上階のをかし」。なるほど。この辺りは、大学の講義のようで楽しい。

それを支えるのが、舞歌二曲(身体訓練と発声訓練)。共通するが、狂言方では、小舞であり、例として小舞『盃』が示される。また、舞と謡における違いも。この部分は、お能として仕舞と謡をお稽古する者として、参考になりますね。

ここだけで、全頁の5分の1ほどに達するので、まあ、お読み下さい。

 

Ⅱ 狂言という心理劇

ここら辺りから、核心部。狂言は「心理劇」であると。狂言の真意を探り当てるのだ、と。

しかも、それは、過剰な説明はなされないのだ、と。

「狂言は、こういう気持ちが背景にあってこのような行動を取った、というような心の動きを説明せず、わずかなしぐさや科白で表す。大事な言葉は必ず丁寧に語られているはず。大事なしぐさは必ずきっちりと演じられているはず。目を凝らしてしっかり見つめ、耳を澄ましてしっかり聞き取り、狂言の言霊を受け取って欲しいと願う。」

ココロして、鑑賞せねばならぬ。

チト、怖い。

 

以下、曲を題材に挙げて、心理劇の分析と提示。

1 附子・棒縛・樋の酒 (様々な主従の形、そして日常の摩擦と葛藤)

 3曲とも、主人、太郎冠者、次郎冠者が登場する。その3者の微妙な人間関係の心理劇。その辺りは、解ります。あくまでも、何度か鑑賞した観客が対象ですが。

 各曲の科白が、かなり紹介される。これが欲しかったんです。粗筋ではなく、こういう科白そのままを記す図書はないものか。お能では、台本に当たる「謡本」が、各流派によって刊行されていて、かなりお稽古しないと読めないけど、読み込めば読めるし、先ほど書いた「対訳で楽しむシリーズ」もある。

この狂言バージョンが欲しい。狂言台本、出版されているのかしら。

 更に、科白だけではなくして、仕草について、「口伝」というべきモノがちょっとだけ示されている。口伝、秘伝だから公開できないのかも知れないですが、それが解れば、ワタクシども素人でも、もう少し見巧者になれます。

 

2 粟田口 (確信を持てぬ不安の行き着く果て)

 粟田口というブランドの太刀を買いに行かせるが、主も太郎冠者もそのモノを知らず、都のすっぱに、粟田口出身の人間のことだと言われて、騙されるお話しだけど、第一級の心理劇だと。

 無知でお馬鹿な田舎大名がまんまと都人に騙されるのか、半信半疑だけど確信がないところに上手のすっぱにしてやられたのか。「こんなすごい心理劇をまったく理解できない学者・研究者・評論家は、まさに知的感性の欠如の露呈である」とまで言う。

 粟田口をよく知らないまま都に来た太郎冠者は、聞いてくるのを忘れた、という。

 「狂言にとって好ましくない粗忽でせっかちな研究者、批評家、また観客たちは、「末広」と同じだと思う。」

 済みません。同じと思っていました。狂言には、同じパターンがあるなあ、と。同じパターンが、あの曲この曲と解ってくると、それが楽しかったんですけど。

 類型はあるが、いつも同じではない。「表に立てないわずかな違い、内に内に取った少しの差違にいち早く気づき、その違いから生ずるものが、問題を提起しているのだということを、狂言から何かを観ようと思ってくださる賢明な観客の皆様ならきっとわかってくださるでしょう。」と。イヤイヤ、なかなか気付かないですよ。ワタクシは、賢明な観客になれるか。

 ここに登場する大名は、金持ちなのだと。それも良く解りませんでした。

 確かに、すっぱに対して、自分を大きく見せようと様々いう辺り、書き物と比べて確かめていく辺り、単純に騙されてはいないと言うことはわかります。

 で、連れ歩くときに、太郎冠者を連れて行かない理由、それが太刀を自分で持つという意味であって、いざ騙されたと解れば切って捨てる覚悟であること、これは良く解りませんでした。なるほど、と。

 騙されて、逃げられて、「粟田口が逃げていかなかったか」ではなくして、「鞘走らぬか」「錆び付かぬか」と呼びかけて捜し追いかける。その意味、解りませんでした。それ以前に、なんと言って追いかけたか、科白が聞き取れませんでした。

 最後に、帰ろうとするときに、大蔵流の山本家では、「私の家の演じ方は、失意の大名が少しの間、俯き加減で数歩、または十数歩歩きます。短いシィーンとした静寂の時間が流れるところですが、突然、大名はパッと顔を上げ、怒りを露わにし、「イエ、今の粟田口、どれへ行く、捕らえてくれい。やるまいぞ、やるまいぞ」といって、追い込みます。」と。これは、みっともない、なさけない、で終わる曲もある中で、しっかと立ち上がる大名という訳ですね。しかも、太郎冠者のせいにはしない自立した大名ですか。そこまで気付きませんでした。

 この箇所だけで、20頁以上費やして、書き込んで頂いて。

 こんな調子ですが、全部紹介できるはずもなし、またすべきものでもないですから、本書そのモノをお読みください。とてもとても見巧者にはなれそうもないです。

 

以下、次の曲を挙げて、どういう心理劇であるかを解説していますが、とてもとても詳しく紹介などできないので、表題だけ。

3 入間川 (念願成就が人を傲慢にさせる)

4 名取川 (流れ去り行くものへの執着)

5 船渡聟 (ささやかな見栄が誤解を生む)

6 伊文字 (人間社会、善意・悪意は個々の事情)

7 靭猿 (価値観の違う二人の思惑は純なものを犠牲にする)

8 花子 (恋とは必ずうつろうもの、でも凡人はそれを繰り返す)

と続きます。

前書「中・高校生のための狂言入門」では、ここで『末広』『棒縛』『靭猿』『貰聟』『法師ヶ母』『船渡聟』『米市』『武悪』『木六駄』が取り上げられていて、重ならないので、併せれば20曲程度の心理劇模様が明らかにされる。

全部は、理解できないです。しかし、いずれも複数回鑑賞しているものとしては、大抵が、なるほど、と思える内容です。

こういう解説書のようなものが、欲しい。

 

本書はこの後、Ⅲ 間狂言の役割、Ⅳ 三番三に移るのです。

勿論、すでに読了していて、実は、この後半が素晴らしくて、これこそブログにとどめねばという箇所ですが、本日は、力尽きました。

もう3時間以上書き続けていて、PCは「休め」を連発しています。

 

ので、後半は、引き続いてのお楽しみ、ということに。

ただ、本日から、落語会、狂言会、狂言会と続くので、続編には、しばらく時間がかかる。

高等遊民も、疲れた。

東次郎先生の著書は、怖い面もあるけど、とても為になるというか参考になり、狂言を見る目が変わってくるのです。

とりわけ、Ⅲ 間狂言は、目から鱗ですよ。