4月22日(木) 国立能楽堂
おはなし 天野文雄
狂言 『木六駄』 (大蔵流 茂山千五郎家)
シテ(太郎冠者)茂山千五郎 アド(主)茂山宗彦 アド(茶屋)茂山七五三 アド(伯父)松本薫
(休憩)
復曲能 『泰山木』 (観世流 金剛流 異流競演)
(天女)観世清和 (泰山府君)金剛永謹 ワキ(桜町中納言)福王茂十郎 アイ(花守)茂山千三郎
笛:竹市学 小鼓:大倉源次郎 大鼓:山本哲也 太鼓:三島元太郎 地頭:梅若実 地謡:梅若紀彰
面 天女・「雪の小面」(流右衛門作 金剛宗家所蔵):秀吉の愛した小面3面「雪」「月」「花」の一
泰山府君・「小べし見」(赤鶴作 観世宗家所蔵):国指定重要文化財
装束 泰山府君「花色地青海波亀袷狩衣」(観世宗家所蔵)・徳川秀忠公拝領にかかる狩衣の一
組み合わせで、「花色地亀甲鶴袷狩衣」がある。
今回は、特別な能会でした。それは、『泰山木』という曲の点もあるし、それに用いられる面や装束のこともある。
勿論、狂言『木六駄』も大曲。
おはなしの天野先生は、『泰山木』という復曲の歴史を中心に説明。といっても、今月号のプログラムに「世阿弥の「泰山木」が歩んできた道ー復曲「泰山木」再見ー」という特集論考を掲載しているので、それを熟読してもらえれば、価値が解る。
金剛流のみでは『泰山府君』という曲名で上演されてきたが、そんなに細々という訳ではなく、例えば現在の金剛宗家は、20回程度も上演してきたとか。しかし、金剛流でも、江戸時代は所宴曲としていなかったが、明治15年に組み入れられたモノの、上演されることがなかった。昭和35年(1970年)になって、金剛流のみで上演されることいなったのでした。
ワタクシが持っている「能楽手帳」にも、『泰山府君』として、金剛流のみとして掲載されている。この本は、1979年刊なので、そういうことなのでしょう。
観世流としての復曲は、平成12年(2000年)で、『泰山木』という曲名になったらしい。その時は、「天女」を観世清和、「泰山府君」を梅若六郎(当時、現在は梅若実)を演じたらしい。平成13年に同じ役で観世能楽堂、平成14年には、役を入れ替えて国立能楽堂で上演された。
なお、金剛流の『泰山府君』は、「天女」は前と後で別の役者が演じ、前の「天女」役が後の「泰山府君」らしい。
今回上演は、前後を通じて「天女」は観世宗家の観世清和、後場しか出演しない「泰山府君」は金剛宗家の金剛永謹という、珍しい組み合わせ。
この曲は、世阿弥作が証明されている上に、色々な歴史的変遷を経て、今日の到達点がこの日の上演でした。この意味でも、歴史的な上演ということになる。
狂言『木六駄』、何度もだし、印象としては、和泉流野村万作師のイメージが強い。確か、万作師の著作でも、力を置いて記載されている。
そんな中での、大蔵流『木六駄』。和泉流では、伯父さんが普請をするので、建築材として木を六駄運ぶのじゃなかったっけ。牛は6頭。大蔵流では、毎年の届け物として、薪六駄と炭六駄でした。牛は12頭。
雪山を峠まで牛12頭を「させい、ほうせい」と追っていく様は、万作師も難しいと言っていたが、茂山千五郎師も、狭い雪道を追って歩む様と寒さは十分に表現していました。ただ、仕方ないのだけど、体つきが、万作師の高齢で、細身に比較して、千五郎師は、結構大柄なので、見た印象が変わる。
ここまでの苦労が、峠での宴会で一変するが、登りの苦労がそのまま反映する。謡の詞章などは、これまでのお稽古の成果で、結構解る。
前半の緊張と、峠での宴会の様で、見所のワタクシは力尽きて、峠を下って、伯父との遣り取り辺りでは、ついウトウト。ゴメンナサイ。
野村万作師が偉大すぎるのでしょう。茂山千五郎さんも、素晴らしかったです。
能『泰山木』。勿論初めて。チト基礎的な知識から。ワタクシも、お勉強したのです。
ワキの「桜町中納言」は、実在の人物で、平安時代後期の公家。藤原成範(しげのり)公。出世したり落ちぶれたり。和歌と桜を愛して、自宅に吉野の桜を植えたりしたものだから、桜町中納言と称されたか、号したか。
両シテになっていると思われる「天女」は、桜ノ精などではなくして、桜花に惹かれて天から舞い降りてきた天人。桜の枝を一枝でも折り取りたいけど、人目が気になってなかなか折り取れないのです。が、やっと月影に隠れて一枝折り取れて、天に帰っていくのが、前場。
「泰山府君」とは、閻魔大王みたいな、ヒトの生死・寿命を司る神。道教の、泰山に住む神です。泰山とは、中国の聖地・霊山で、そこに泰山府君が住むと考えられていた。実在する山です。
プログラムに、人々の尊敬の的を意味する「泰斗」の語源は、この泰山の泰と、北斗七星の斗だと書いてあって、広辞苑には、泰斗とは(泰山や北斗のように)その道で他人から最も仰ぎ尊ばれている権威者、とある。なるほど、お能は勉強になる。なお、道教では、北斗真君は、北斗七星を神格化したものだそう。道教繋がりですね。
今回の上演は、金剛宗家も観世宗家も、囃子方も、皆さん、力が入っていて、大感激なのでしたが、その表れの一つとして、面と装束。
観世宗家が演ずる「天女」の面は、金剛宗家が所蔵するもので、面に関する書籍にも出てくるように、豊臣秀吉が愛した小面3面のうちの、「雪の小面」。他2面の「花の小面」は三井家所蔵らしく、「月の小面」は江戸城火災の際に焼失したとか。
金剛宗家が演ずる「泰山府君」の面は、観世宗家が所蔵するもので、赤鶴(しゃくつる)作と告知されていた。「伝」じゃないのか、どうか。赤鶴名は、申楽談儀にも登場する。国指定の重要文化財なので、ホンモノかも知れない。
更に、「泰山府君」の装束は、徳川秀忠から観世宗家が拝領された二両の狩衣「花色地亀甲鶴袷狩衣」と「花色地青海波亀袷狩衣」のうちの一。
金剛宗家秘蔵の面と、観世宗家秘蔵の面と装束の、交換っこ。力が入っているでしょう。
この面と装束は、カラー印刷されたものが公演資料として配布されている。このブログに載せたいのだけど、方法が解らない。国立能楽堂も力が入っているのでした。
出演者も凄くて、人間国宝4人。地頭に梅若実。小鼓に大倉源次郎。太鼓に三島元太郎。そして後見に野村四郎。
これだけ揃っていると、全員力が入らざるを得ない舞台です。記録的な、舞台でした。感動、感激。
ストーリーは、先ほど述べた前場に続いて、後場では「泰山府君」が誰が桜の枝を取ったのじゃ、と出てきて、天女だと知ると、なるほどと、ヒトだけの寿命だけではなくて、桜花の寿命を延ばすのも役割だと。それを受けて、山河草木鳴動して天女が舞い降りてきて美しい天女ノ舞。泰山府君も舞働。勇壮に。桜花の寿命が21日間まで延びて、めでたしめでたし。
「旬」とは、十日を意味するのか、七日を意味するのか。十日ですよね。詞章に、「花の盛りは、三旬にも満たない、ただひと七日である」とあった、これをワタクシは、30日にも満たない、わずか7日だけだ、と約したのですが、配布された現代語訳(監修者訳だと)ではここを「三七日にも足らず、一七日に過ぎない」とあった。この訳も意味が良く解らないけど、サンヒチ日とヒトシチ日と読むのかしら。サンヒチ日ならば21日間のことか。ヒトシチ日は7日間のことか。
ワタクシは、泰山府君の威徳によって、21日間に寿命が延びたと訳したけど、ここは「桜の盛りは三倍の三七日まで残ることになった」と現代語訳してあった。元の詞章には「花の命、七日に限る、桜の盛り、三七日まで残りけり」とあって、サンヒチニチとルビが振ってある。サンヒチニチとは、三×七で、21日間ですよね。
最初の「三旬」とは、ナンだったんだろうか。要するに、桜はせいぜいが7日間だけど、威徳によって、3倍に伸びた、21日間になった、ということですよね。
その辺、ちゃんと訳して貰いたいし、誰か教えてください。
地謡は、紀彰師の声と実先生の声質が似ているからかしら、紀彰師の声の方が良く聞こえていた。と思うのは弟子だからかな。
実先生は、椅子だったけど、出入りに、ちょっと笛柱に手を添える程度でした。
観世宗家清和さんは、一箇所詞章を間違えたけど、気にしない。「我が通い路の関守は」を「我が関守の関守は」と。ただ、あれでは意味が通じないですね。
後見の野村四郎さん、お年を召した、立ち上がるのに苦労されていた。お顔もややむくんでいるように見えました。以前のあの精悍さはない。
小鼓の大倉源次郎さん。ホントに掛け声が良い声で。うっとり。
太鼓の三島元太郎さん、あんなに小柄だったのは、比較的大柄の囃子方について出てきたから、目立った。でも、打ち始めるとオーラが漂う。力強い。
アイの茂山千三郎さん、最近、千五郎家から独立したと聞いたけど、素晴らしい。桜の作り物が、ずっと舞台の正先に置いてあるのですが、その作り物を、千三郎さんが自ら一人で運び出して、最後も一人で運び出していた。結構重そうだし、桜が生けてあって、安定性に欠ける作り物。だから、アイ狂言出番が終わっても、後ろ向きになって、囃子方の後ろ側にいたんだ。
これだけの役者が揃って、皆さん力が入っていれば、素晴らしい舞台になるのは決まっています。これぞ一期一会の舞台。歴史に残る舞台でした。
面と装束を見るために、オペラグラスが大活躍。いままで、あまり装束は気にしていなかったけど、大切ですね。使用した面の紹介はあるけど、装束の紹介はないから。今回は、じっくりと鑑賞させていただきました。お能の楽しみが一つ増えたような。