4月10日(土) 小金井宮地楽器ホール
解説 川口晃平(観世流 梅若会)
仕舞 『老松』 津村禮次郎
『富士太鼓』 梅若紀彰
地頭:山崎正道
狂言 『附子』 (大蔵流 山本東次郎家)
シテ(太郎冠者)山本則重 アド(主人)山本泰太郎 アド(次郎冠者)山本則秀
(休憩)
能 『田村』・替装束
シテ(童子 田村丸の霊)川口晃平 ワキ(旅僧)御厨誠吾 アイ(門前ノ者)山本則秀
笛:藤田貴寬 小鼓:鵜澤洋太郎 大鼓:亀井広忠 地頭:梅若実 地謡:梅若紀彰
面:前シテは「童子」? 後シテは「天神」?
観世流梅若会主催の能会ではなくして、そこに所属する川口晃平さんの主催する会。梅若会の全面的協力を得ているが、梅若会以外にも出演者がいる。
川口さんの生まれ故郷である小金井市に恩返しがしたいと、毎春に能会を開催することにしたらしい。1回目は一昨年。去年は中止。今年は3回目で、実質2回目だそう。今後継続していく予定とか。
川口さんは、一方的に顔見知りで親近感がある能楽師だし、梅若会所属だし、師匠の梅若紀彰師が出演するし、丁度『田村』の謡を習っているところだったので、参加。
17時開演という時間設定は珍しい。会場も初で、さて夕食どうしようか、終了時間後ではお店がやっていないし、などと、余計な心配もしながら。
仕舞の始まり『老松』は、津村禮次郎さんで、梅若会所属ではないけど、同じ観世流で、78歳とご高齢であって、小金井薪能を長年催しておられ、川口さんら小金井の能楽師の大先輩だから、外す訳にはいかない。『老松』は、舞ってみたい曲で、勉強させて頂いた。
仕舞『富士太鼓』梅若紀彰師。紀彰先生は、最近、色紋付きが多いのです。今回も、美しい色紋付きで、素敵。おしゃれ。
習ったとおりというか、お手本として録画したい謡と舞。むむむ、格好いい。まさしく、手本、見本。
色紋付き買うぞ。
狂言『附子』。もう何回も。アド主人の泰太郎さんが橋掛かり風に拵えた道を、進んでくる。泰太郎さんの歩み姿はホントに美しい。決して上半身は上下などせず、すっと、すーっと、摺り足で。これも見本です。
シテ太郎冠者の則重さんとアド次郎冠者の則秀さんは、実の兄弟で、あれまあ、寸分違わずというか、ぴったり息があっている。発声も動きも。それに、従兄弟に当たる泰太郎さん。
今回は、四世東次郎世代は参加せず、もう泰太郎さん達の世代で十分な気もするし、やはりまだまだ東次郎さんが良いという気もするし。でも、確実に世代交代へ。その準備は万端。
能『田村』。2回目。初回は2019年10月、鎌倉能舞台でシテはそこの中森健之介君だった。
が、梅若紀彰師の元で謡の練習や、仕舞のお稽古もあって、絶対に2回目とは思えないほど、親しみがある曲。
今回は、替え装束という小書き付き。後場の坂上田村丸の装束が、通常は、修羅物風、平家物語風なのだそうだけど、物語の時代に合わせて、唐風の冠り物、衣装、太刀ということらしい。面も、それに合わせて「天神」と言ったような記憶だけど、梅若会の面で、修羅物風ではなくして、神風。なかなか、面白い。
前場の清水寺、地主神社(権現)の、花見。地主神社は、先日初めて意味というか場所が解ったのです。近時のブログで自白。
今度発表会で謡う連吟、「春宵一刻値千金 花に清香 月に影」から中入の前迄、じっと聞き込むし、聞きながら心臓がドキドキしてくる。何でだろう。能を観ながら、こういう状態になったのは初めて。ちょっと説明が付かないけど、ドキドキなのです。川口さんの謡は、梅若会の節だし、声も良いし、聴き慣れている詞章なので、頭の中では同時に謡えるのですが、なんだかドキドキ。自分が謡っているかのような感覚かなあ。新しい、妙な、感覚。
クセ舞も、ほぼ習った型だけど、ちょっと違うところもあって、あの上げ扇は飛ばしても良いのか、とか、これも観ながらドキドキ。
地頭が実先生で、最初からは登場せず、初同が始まる少し前に、後列の3人と共に舞台へ。能舞台ではなくして、ホールだからだろうか、そっと手を添える柱などがなくて、両脇の地謡方に補助されながら登場して、椅子に着席。終了後の立ち上がりも同様に、ややフラつく。この前拝見したときより、少なくとも良くはなっていない。声は最高。ただ、梅若紀彰先生の声と似ているのか、実先生の声か、紀彰師の声か、区別できない。ただ、明らかに、実先生の主導で謡っていたので、地頭はホントに実先生。
詞章はほぼ頭に入っていて、一緒に謡いたくなるのだけど、ワキは、やはりワキ方の詞章で、習った梅若会の詞章とは違う。ここは一緒には謡えない。でもシテとワキが同吟する部分は、シテに合わせたのでしょうね。
後場は、後シテの登場から緊張感。川口さんは、立派な声でツヨ吟。角トリは、習った強い型。そうです、ワタクシも『竹生島』で習って、下手なりに舞った強い角トリの型。強いヒラキも同様。これも観ながら心臓ドキドキ。
キリになってからが良く解るのですが、謡が、素謡の場合と囃子が入る場合と、こんなに違うのですね。緩急も、しっかりと序破急。誰がリズムを取るのだろう。
何だか、鑑賞するお能という感覚ではなくして、お勉強させて頂いたお能という感覚。こういう鑑賞もアリというか、お稽古を積んでいくと、自分でもできそうな曲だと、楽しさより、ドキドキ感。
でも、演ってみたいなあ、謡ってみたいなあ、舞ってみたいなあと思う。秀吉以降の大名達は、こういう感覚だったのでしょうか。
これまでほとんどのお能は、能楽堂で観てきたから、ホール能会は、チト寂しい。違和感。やはり、橋掛かりがあって、屋根があって、4本柱があって、3本の松があって。全体として、お能の鑑賞という気がする。
さてさて、高等遊民。能楽関係の読書も進んで、ますますお能に、狂言も、能楽にハマっていく。