2009年(平成21年)9月発行 淡交社刊

 

馬場あき子さん、1928年生まれ。現在は、93歳か。

和歌が専門で、お能の造詣も深いとか。

本書は、馬場さんが、1975年(昭和50年)から書いた随筆などに加筆修正したもの。執筆当初は、48歳か。

 

馬場あき子さんという方は、ちょっと前迄お名前も知らなかった。お能の鑑賞をするようになって、まあなんて素敵なおばあちゃんか、と。

 

2020年(令和2年)10月から翌年2月まで、横浜能楽堂企画公演で、毎月一度「馬場あき子と行く歌枕の旅」があって、全5回シリーズ。毎回、馬場あき子さんが、歌枕について講演し、それに合う能を上演する。能を選んで、それに相応しい歌枕の解説をするのかも知れないが、多分後者だとは思うけど、企画は、実質的には馬場あき子さんだろう。

4回目だけ、チケットは買ってあったものの、サボってしまったが、5回中4回は出席して、ブログに書いてある。

 

そのブログにも書いたけど、なんとまあ素晴らしい、お元気な方よ。毎回、手書きのレジュメを用意されていて、それを基にして解説される。

舞台上には葛桶が用意されてあって、座っても講演できる状態なのだけど、決して、1回も座らなかった。そこは、メモを置く場所と化していて、立ったまま、マイクを握ってお話になる。

そのお声のはっきりしていること。

内容もまた素晴らしく、歌枕となった古歌だけではなく、様々な和歌を並べて、解説する。その和歌を詠み上げられる時の、朗々としたお声。実に楽しそう。記憶もはっきりしていて、和歌やお能が好きなんだねえ、と心から思う。

92歳なのです。

講演が終了してお能までの休憩時間、2階の控え室に向かうのだろうか、お着物を召して、スタスタと歩かれるのを何度かお見受けした。とても声をかけられるほどの自信はなかったが、笑みをたたえて、お優しそう。

馬場さんが、どこかの大学か何かで特別講義でもしていたらば、潜り込んで、最前列で聞き込みたいと真剣に思うほど。

講義を聴くチャンスもあまりなかろうから、著書でもないかと、図書館の目録から探していた。

 

一方、謡の練習で、また能の鑑賞で、詞章のコトバを聞き取れるだけではなくて、その意味が理解できたらば面白かろうなと思っていた。

また、前にも書いたけど、仕舞のお稽古をするに、詞章の意味が解らなくてはならないと、『船弁慶』クセの詞章を理解しようと調べたらば、なんと、本説になっているのは、平家物語や源氏物語だけではなくて、司馬遷の『史記』もあったのだ。

和歌の素養と、漢詩の素養。日本史と唐歴史。和漢の知識が平安時代からの教養であって、それが”ある”ことが前提となって、詞章が作詞されている。鑑賞する側も、それが”ある”ことが、楽しみの前提と言うこと。

 

そんなときに、たまたま見つけたのが本書。

 

その「はじめに」の項。

「私は・・ただひたすら能を観、謡曲の文言を読みながら時間と観能の番数をかけて愛好者への道を歩んだものだった。

そうした体験の中で得た観能の方向は、文学としての能本の読みと、芸術としての舞台表現の双方からの鑑賞によって総合的な深い魅了が生まれるということである。」

 

おお、その通りです。これこそ求めていたもの。

舞台の緊張感、囃子方のリズムと迫力、地謡の声、シテ方の舞、それぞれ素晴らしいし、好きなのですが、詞章(コトバ、詩)の美しさと、その意味することが欲しいのです。

 

目次を少々。

<花と余情>編

祝壽の舞 『高砂』

空への憧れ 『羽衣』

落花哀惜 『熊野』

人間憂いの花盛り 『隅田川』

処女の地獄 『求塚』

盲目の見者 『弱法師』

勝利の寂しさ 『屋島』

一つの貌の神と鬼 『氷室』と『野守』

夕顔の夢 『半蔀』

閨怨の秋 『砧』

老木の艶 『遊行柳』

人待つ女 『井筒』

精霊の夜遊 『融』

罠に落ちた半獣神 『一角仙人』

時雨と虚無 『邯鄲』

情の哀しみ 『鉢木』

 

これに取り上げられた17曲。それぞれに、詞章の意味を深いところで捕まえて、愉しんで、謡うように解説していく。

例えば、『羽衣』から。

初同で。(若干編集しています)

「住み慣れし 空にいつしか 行く雲の 羨ましき 景色かな 迦陵頻伽の 馴れ馴れし 声今更に わずかなる 雁がねの 帰り行く 天路を聞けば なつかしや 千鳥鴎の 沖つ浪 行くか帰るか 春風の 空に吹くまで なつかしや」 

馬場さんは、「この初同部分が、謡としても場面としても好きであるが、さらにここには、日本文学には数少ない空への憧れがあって心ひかれる。」と。

そうです。まず、謡の詞章というか詩というか、非常に綺麗な七五調の文体に圧倒される。名文でしょうね。作詞家として素晴らしい。

その上で、空への憧れがあると。

そうそう。キリの部分、天女が空天に帰っていく。

「天の羽衣 浦風に たなびきたなびく 三保の松原 浮島が雲の 愛鷹山や 富士の高嶺 かすかになりて 天つ御空の 霞に紛れて 失せにけり」

素晴らしい。

 

こういうことが、各章に書いてあって、お目々ぱっちりなのです。

馬場さんの深い教養と、愛情が感じられて、お能がますます好きになる。

 

なお、<作り物随想>との編もあって、お能の舞台に登場する作り物への思いが書き込まれている。これも面白い。

 

「馬場あき子と行く歌枕の旅」でも感じたことだけど、こういう素晴らしい人の解説や話を聞いてしまうと、シテ方は非常に演じ辛いのではなかろうか、とも危惧してしまう。

しかし、我々ド素人には、といっても、一定程度お能のストーリーなどが理解できた段階では、数段深まって、愉しむことのできる名著であることは疑いがないのです。

今まで鑑賞したことのある能曲がそういう意味だったかと。これから鑑賞する曲も、また、楽しいものになりそうだと。

高等遊民、ますますお能に嵌まってしまっている。この本だけは、買おうか。