昨年12月に、お稽古発表会として、仕舞『竹生島』キリを試みて、最初はなかなか出来ず、紀彰先生のお手本録画を何度も何度も観て、また、型付け本を読んだり、お稽古の時の紀彰先生の型順の教えを反芻しながらしても、なかなか出来なかったが、ある時能会の仕舞を最前列で観ていたら、シテ方が地謡の部分も詞章を口パクで口ずさみながら舞っているのを観て、そうか、謡を理解して覚えなければならないのだと、今更、気付いた。

それで、『竹生島」キリの詞章を頭に覚え込んで、やっと、型の順を間違えないようになって、謡と舞の取り合わせも解るようになって、初めて、型付けにまで気が向くようになって、お稽古発表会では、それなりに舞えたという経験があった。

 

このとき、後で仲間に聞くと、謡を理解し記憶するのは当然だ、等と言われて、ああそうなんだ、と納得した。謡がわからないで舞える訳無いじゃん、と。

 

この度、春のお稽古発表会というのをやることになって、紀彰先生から何をやるか、と問われて、前にお手本を見たことがあって、簡単そうだからと言うので『船弁慶』クセにした。

基本的な型が多くて、素人のお稽古の入門編みたいなもの、という程度の知識はあったのです。『熊野』クセとか、『紅葉狩』クセみたいな。

 

さて、では経験に学んで謡の詞章からお勉強しましょう、と。

前提として、『船弁慶』の前場で、義経の都落ちに付いてきた静が、別れの宴で、舞う白拍子の舞だと言うことくらいは知っていた。

 

「然るに勾践は」

シテ謡から始まる。ヨワ吟で、拍子合い、下音と書いてある。これが終わって立ち上がる。

シカルニ コウセンナー。節は単調だけど、何じゃこりゃ。意味わからん。

勾践って、なに?

調べたらば、紀元前五世紀頃の春秋時代、中国の中原地域にあった「越」の国の王の名前。むむむ、和物語では無いぞよ。

 

「再び世を取り 会稽の恥を雪ぎしも」

フタタビ ヨヲトリ カイケイノハヂヲ ススギシモ

地謡で、シテはじっと立ったままカマエで動かないのですが、謡の意味不明です。

「呉」と「越」の戦いなのですね。仲が悪くて、覇権を争って、度々戦。

一度、会稽山の戦いで、越王勾践は、呉王夫差に大敗して、軍門に降り、ひたすら謝って命は助かって越の滅亡は免れるが、部下に甘んじる。このときの悔しさを忘れないようにしたのが「嘗胆」ですね。

その以前、呉が越に負けて、息子の夫差に復讐を誓わせて、夫差が努力したのが「臥薪」ですが、ここでは関係ない。

そして、上手く計らって帰国して、逆襲して、呉国王の夫差を自殺に追い込む。

これが、「再び世を取って、会稽山の敗北の恥を、雪いだ」という訳です。

会稽の恥、だけで一つの故事言葉になっている、とかや。

 

「陶朱功を なすとかや」

地謡の連続で、下五句の、す、で込みを取って、か、で左拍子。ここまで、シテはカマエのまま。

トウシュコウって、偉い人かと思ったら、陶朱って、人の名前で、功があって、会稽の恥をすすげたということ。

じゃあ、陶朱って誰か。勾践の部下で、范れい(難しくて字が出ない)という人。彼が、色々画策して、越王勾践の帰国を果たした、という。後に、陶朱と呼ばれたらしい。だから、この物語の時点では范れいだけど、後に有名になったのは、早期引退した後のことなので、船弁慶作時点では、陶朱の方が通じる。

 

「されば越の臣下にて まつりごとを身に任せ 高名 富 貴く 意の如くなるべきを」

サシコミ、ヒラキ、角に行って角トリ、左に回って大小前へ。

陶朱は、越の臣下で、功績大だから、政治は思うまま、名声も高く、富も築き、身分も貴く、何事も思うままなのだ、ということ。

 

「功なり名遂げて 身退(しりぞ)くは 天の道と心得て」

大小前で右足かけて正へ向き、サシコミ、ヒラキ。

かように、功なって、名を遂げた時に、引退したのです。それは、天の道だと。

この引き際が後の世に、名を残すゆえん。絶頂期に、慢心すること無く、身を引いたということらしいが、調べてみると、勾践という王は、疑心家で、もう一人の功臣を死に追いやっている。それを見て、陶朱(范れい)は、危ない危ないと、身を引いたようです。ところが、能力あるものだから、商才もあって大儲けしたらしい。それは、ここでは関係ない。

ともかく、潔く身を引いた。

 

「小船に棹さして 五湖の 煙濤(えんとう)を楽しむ」

サシ廻し、サユウ、ウチコミ

政治の世界から潔く身を引いて、自然の中で人生を楽しんだ、と。ゆっくりとその情景を現すので、サシ廻し。

金持ちだから、悠々自適ということか。金のあるなしが、高等遊民とは違うが、まあ、我が現在の状況に似たり。

これは、陶朱のお話で、陶朱を誉めている、羨んでいる。なのに、勾践から始まっているから混乱する。

 

「かかる例(ためし)も 有明の」

シテ謡で、上げ扇、右うけ。

ここまでは、唐朝の話で、こういう例は、本朝にもあるよ、と。いよいよ、義経の方に話題が降ってくる。

 

「月の都を ふり捨てて」

大サユウ、下五句の、り、で込みを取って、て、で左拍子。

義経が、都落ちをしていく。

 

「西海の波濤(はとう)に赴き 御身の科の無きよしを」

右に5~7歩、正中先にウチコミ、ヒラキ

義経様は、西海に落ちていって、自分の責任や罪はないものを、と。

 

「嘆き給わば 頼朝も 終には靡(なび)く」

左に回って、シテ柱の常座へ、かけて正へ向かって、サシ出で、角にて止まる。

自分に責はないことを必死に訴えれば、頼朝様も、最後はわかってくださるよ、と。

 

「青柳の 枝を連ねる御契(ちぎり)」

カザシ扇、左に回る、大小前まで。

柳の枝が連なっているような、兄弟の間柄なのです、と。

 

「などかは朽ちし 果つべき」

最後の、サユウ、ウチコミ、下に居。

どうして、そういう仲が終わりになるでしょう、と。

 

とまあ、こういう詞章の謡なのでした。これに合わせて舞う。

 

『船弁慶』は、観世信光の作。世阿弥の甥の子らしい。15世紀の人物。この当時に、こういう唐の故事が貴族達にはわかっていたんだね。勾践だの、陶朱だの、呉越だの、会稽の恥だの。司馬遷の「史記」に書いてあるらしい。紀元前一世紀頃の歴史書。

漢学は、和歌と並んで、本朝の貴族の必修だったのか。

お能は、知識と教養が無ければ、謡えないし、舞えないのかしら。

今でこそ、ネットで調べられるけど、ちょっと前迄はこんなこと調べられない。中国古代史の専門家か、専門書を読まないと。少なくとも、司馬遷の「史記」は読んでいたんだろうね、昔の人は。戦前までは、教養人は解っていたんだろうか。

司馬遼太郎は、「史記」の作家である司馬遷から名乗ったはず。

 

高等遊民。お近くに感じる陶朱に習って、能楽の世界に遊びましょうね。

しかし、難しいもんだ。