3月14日(日) 横浜能楽堂
狂言組 (大蔵流 山本東次郎家)
『惣八』
シテ(出家)山本東次郎 アド(有徳人)山本則重 アド(惣八)山本泰太郎
(休憩)
『磁石』
シテ(すっぱ)山本則孝 アド(見付の者)山本凜太郎 アド(亭主)山本則秀
お話し 山本東次郎
小謡 『鐘の音』
今回の狂言堂は、知っている曲なので、安心して、というか、勉強せずに参加。前日の雨とうって変わって良い天気で、気分は上々。朝から洗濯をして、パシッと干して、今日は乾くぞと冬物作務衣を洗って干してくる。
『惣八』。『宗八』とも書くらしい。シテ出家が元料理人。アド惣八が元出家で、アド有徳人から高札で雇われて、来る。転職したものの、食い詰めているのだ。転職した割には、シテ出家は経が読めないし、アド惣八は魚料理がまったく出来ない。
まず、シテ出家が雇われて、次いでアド惣八が雇われるのだが、そのアド惣八山本泰太郎が橋掛かりから歩いて登場。このときの歩き姿に感心。物語とは関係ないのだけど。頭と、肩と上半身がまったく動かずに、スッスッと摺り足で出てくるが、お能のシテ方より上手なんじゃ無いのか。あの動きが出来ないんだよね。
ところで、料理人の名前が惣八あるいは宗八なのは何故だろうか。曲名も、役名も惣八(宗八)なのです。シテ出家は名前が出家なのに。当時は、一般的に、魚料理人は「惣八」とでも名乗っていたんだろうか。曲中でも、アド有徳人がアド惣八に名前を尋ねて、惣八だと答えるシーンがある。出家には名前は尋ねなかったな。
二人とも、職業訓練もしないで転職しての初仕事みたいで、出来ないで困る。シテ出家は、お経を渡されるが、そもそも字が読めないのでは無いか。法華教だということすらわからない。アド惣八も、魚臭くてたまらないとすら。
どうして、出家と魚料理人の組み合わせなのだろうか。生臭坊主ということで、坊主を揶揄しているのだろうか。生臭物といえば、生魚かな。
それぞれの元職を知って、交替する。これはうまく行く。元料理人のシテ出家は、あの、古風料理スタイルで、魚に直接触れずに、包丁と長いお菜箸を器用に使って、魚を切る。狂言方は、こんなこともできなくちゃいけない。
交替して、役割としてはうまく行っていたのに、アド有徳人に見つかって、すっぱかと、叱られて、ご許されませ、ご許されませ。
でも、丁度、交替で出来たのだから、そのままやらせればうまく行くじゃないか。しかし、出家が生臭魚を扱って、資格の無い惣八が経を読むので、マズイのかなあ。アド有徳人が騙されたのが気にくわないのかな。
『磁石』。これも妙な狂言だ。前いつ観たか、過去ログを繰ってみたら、2019年11月に国立能楽堂定例公演での狂言共同社だった。あまり、良い印象が書いていなかった。
アド見付の者の名ノリと道行きから。遠江国見附で何かしら不祥事を起こして、都に行くことになる。国境とみると三河国でここには八橋という名所があるけど寄らずに行く、次の国境で尾張国、ここには熱田神宮が有ってお参りするかと思えば、ここもパス。次には近江国。ここには坂本という繁華街があって、ここにはどうして寄ってしまう。
この道行きが、良く理解できてうれしかった。これまでのお能の経験のため。
遠江国の見附は宿場町で、まあ、女郎街だね。そこで何かしら失敗したのだ。八橋は能『杜若』。古歌の教養が必要な名所。伊勢物語。在原業平。アドにはこの教養はない。尾張の熱田神宮に寄らないのは、信心が無いから。でも、近江の坂本にフラフラと寄ってしまうのは、繁華街だから。坂本といえば、比叡山から下りてきた僧などが、遊ぶ場所。アドは教養も信心もない遊び人なんだね。
ということが、この道行きからわかるのです。ワタクシ、スゴイ。
坂本で見物などして遊んでいると、言い寄ってくるアドすっぱが居てつきまとう。都会によく居る詐欺師らしい、とは後の解説で知る。良いこと言って近づいてきて、どこかに連れ込んで、持ち物を取り上げるかする人種。こういうのが良く居るのが、坂本という街なんだ。シテすっぱは、人買い。定宿と行って連れて行く宿のアド亭主とは仲間で、値段まで決めている。
危ない、危ないのだが、シテすっぱとアド亭主の会話を聞いてしまうアド見付の者は、代金だけかすめ取って逃走。上手く逃げられました。
しかし、シテすっぱに当然バレてしまって、アド亭主から太刀を借りて、追いかけられて、つかまる。そこで、太刀で威すか、すっぱり切られるかするところを、なんと、アド見付の者は、自ら磁石の精と名ノリ、太刀を振り上げると、ああー、と口を開けて飲み込もうとする。何じゃこりゃ。でもこれでシテすっぱはひるんでしまう。じゃあというので、太刀を鞘に隠すと、アド見付の者は死んでしまう(フリをするのかな)。可哀想だというので、魂を呼び戻すと、生き返った(フリかな)アド見付の者が、その太刀を取り上げてしまって、逃げおおせるという、妙ちくりんのお話し。
実は、多くは、後の東次郎さんの解説で理解できたのですが。
面白い印象だったけど、解説によって更にわかって、良かった。2019年11月の時には、何だか良くわからないままでした。
都会のすっぱが、田舎者の無教養人に却って騙されるお話し。田舎人は、度胸があるねえ。
山本東次郎さんの「お話し」。これを楽しみにしている見所客も多いらしい。実にわかりやすく解説して頂いて、狂言が好きになる。意味が解らない狂言曲も多いからね。
質問コーナーでは、2021年2月の横浜能楽堂「家×家交流」にいらした方も多くて、ワタクシも出席していて、東次郎さんの『月見座頭』の話しも出て、やはりね、東次郎さんの追っかけ的だなあ、と。
その後、事前予告なくして、小舞『鐘の音』。東次郎さんは、右膝を痛めていて、苦しかろうに、痛いだろうに、ちっとも、そぶりにも感じさせず、拍も、両足しっかり踏んでいたし、始めと終わりには、キチンと下に居で。
この小舞は素晴らしかった。観ていて、ジーンときた。目頭が熱くなる小舞って、なに。さすがに、人間国宝、芸術院会員。これこそその地位に相応しい。
いつまでお元気で舞台に出られるだろうか、と気になってしまうが、出られる間は出ていただいて、みっともない舞台はやめていただいて、感動を与えてください。
『惣八』のシテ出家が魚をつまむ時に失敗したことを詫びて、みっともないものをお見せしました、だと。その姿勢が却って感動を呼ぶ。
感動、感激する能楽は、極端に言うと、生きる力を与えてくれます。