3月5日(金) ジャック&ベティ

 

2019年作品 ロシア語 モノクロ・カラー

 

セルゲイ・ロズニツァ作品のドキュメンタル映画「群衆」の3本立てが、公開上映されている。

このうちの、『国葬』と『粛清裁判』を連続して観た。もう一つは『アウステルリッツ』だが、これは同一日の上映はないから、2本だけ鑑賞したことになる。

 

『国葬』は、スターリンの葬儀に関する実写フィルムを編集したものである。

 

まず、歴史的事実関係。

1953年3月5日 スターリンが死亡する。その2日前辺りに脳溢血で倒れて、そのまま死亡した。

6日 遺体がモスクワの会館に安置され、弔問が始まる。

?日 遺体はレーニン廟に会葬されて、そこで追悼集会が行われる。

 

映画は、まず、スターリンの死を伝えるラジオや新聞記事の映像から始まる。

次いで、外国からの弔問客の受け入れシーン。知った顔でわかるのは周恩来くらいだ。

そして、延々と続く、弔問の人の列と行進。どう見ても、警察や軍に行動を規定されているが、足音が続く。反時計回りにぐるっと、遺体を見上げて、出ていくだけ。但し、党幹部らは、その遺体の傍に佇立する。

会場の外には、花輪が次々と重ねられていく。行進してきて、置いていくのだ。

BGMとして採用されたのは、モーツァルトの「レクイエム」、チャイコフスキーの交響曲6番と5番。実際の葬儀の時にも演奏されていたらしい映像もあった。

その葬儀に合わせてか、各地、各生産現場、農場などで、モスクワに行けない群衆が、そこで葬儀を行う。

そこで映し出される群衆は、整然と行動し、誰もが、悲しみをたたえ、一言も話すことなく、黙々と、頭を下げている。

 

会館からレーニン廟に遺体が移される時に、棺を掲げるのは、先頭に立つのは誰だ。これが次期指導者を決定させる。

 

オープンな場所で追悼集会が開かれるが、参加者は、その前の一部に整然と並んで、いる。限定されたモノだけが参加できるのだ。

追悼集会は、フルシチョフの司会で行われる。第1のスピーカーは、マレンコフだ。ついでベリヤ、最後にモロトフ。これは、新序列を連想させる。

ロシア革命当時からの幹部連中の内、この時期まで生き残っていたモノ達。スターリンに殺されたモノ達は、当然、ここに居ない。

レーニン廟に運び込まれる時に、棺を担ぐ先頭は、マレンコフとベリヤだ。その後ろにフルシチョフとモロトフ。

 

さて、この映画の真髄は何か。映されている映像は、間違いなく当時のモノで、スターリンを賞賛するために撮影されたのだ。どうやら1本の映画にするために、動員され、許可された撮影者が、モスクワを中心に、各地に飛んで、撮影したのだろう。多少の演技はあるだろうが、実際の出来事だと思う。

ロシア革命史、スターリンの評価などに、興味のあるものは、登場する幹部達に注目する。そして、群衆の黙々と従う風に、驚く。

 

社会主義・共産主義と、独裁。スターリンだけではない。イコールではないが、決して無縁ではない。

 

この映画を観ようと思った動機の一つに、日本共産党機関紙あかはた新聞が、「社会主義とは無縁の独裁」を描いた映画と評していたことがあって、何をアホなことを言うのか、と反発したこともあった。

無縁ではないのだ。社会主義の本質だとは思わないけど、独裁との親和性は高い。スターリン時代はその頂点であったが、現代でもあまり変わりはしない。

党の指導性、中央委員会の指導性、中央委員会幹部会の指導性が、革命の遂行には必要だとの思想であって、そうであれば、ほぼ必然的に独裁化する。スターリンは、個人崇拝があった。

 

そんなことを考えながら、高等遊民は生きていく。

あまり、高等遊民的な活動ではなかったな。