10月30日(金) 麻生市民会館大ホール

開口一番 前座 桃月庵あられ 『つる』

春風亭一之輔 『茶の湯』

(中入)

柳家喬太郎 『ウルトラのつる』

桃月庵白酒 『死神』

 

6月は6時半開演予定が、今回はさしたるアナウンス無く、7時開演へ。この時期になると、「たそ(誰ぞ)かれ(彼)」状態に至る時間に、家を出かけるという、なんとも、コロナ鬱に相応しい状態。ムムムと下を向きながら、寒くなってきたなあ、月は綺麗だなあ、こんな落語会どうしていくんじゃろうかのオ、等と考えながらトボトボと。

 

本来は、6月12日(金)の公演予定が、コロナで延期して、10月30日に延期。ダメな人は払い戻しに応じたらしいが、基本的にはそのチケットのまま、同じ席で今回へ。主催の会社(パインオリジン)の経営も大変だろうな、と。出演者がチクリチクリと。同社は、一之輔の独演会の主催もしているので、一之輔との関係が深いか。中止にしてしまって、全部払い戻しにしてしまうと、主催は、会場費は払うのだろうし、払い戻しに要する費用も持ち出しで、噺家には払わないにしても、人件費もかかるし、倒産してしまうかも知れない。

この3人会は、一年に一回やってきたらしい。今回のも、ボクのチケットは2月20日に買っている。あの頃はイケイケで売れたのだろうけど。今や、青息吐息か。

噺家は、コロナ休業中は、収入ゼロで苦しい若手もいただろうけど、今回のような師匠連は、ちょっとした休暇にすぎないだろう。自分が主催じゃ無いから、気が楽というか。

 

前座のあられは、白酒の3番弟子と言っていた。このところ、前座は『つる』が多いなあ、と思っていたら、常の前座ばなしとはチクッとひねりを入れていた。面白くは無いけど。眠くは鳴らなかった。努力しないと、だよね。

 

一之輔の『茶の湯』。一瞬、痩せたかな、と思う。たしか、数日前にも同じ会場で独演会。疲れたかな。マクラも冴えない。『茶の湯』はまあ話しやすい慣れた噺なのでしょうか。貸し家に押しつけようとして、引っ越すと騒ぐのでは無くて、ここはさらりとだけ。どんな人を引っ張り込むか、さらうか、に重点。

棗のことを隠居が忘れた部分で、あの名前は「今日は男茶の湯だから、漱石」「女茶の湯だと雅子』と言って、ここは新しいギャグだけど、あまりウケなくて、ボクと、もう一人の女性には大ウケしていただけで、「あまりウケねえ」とこぼしていた。

という訳か、今日の一之輔は、うまく行かなかったケース。

 

気楽な真ん中の喬太郎。一之輔の失敗を観てなんと思ったか。マクラから爆笑。小田急線の話しとか、接待を伴う飲食店の話しとか、羽織紐を忘れた話しとか、色々。突然思い出したと言って、「小田急新宿地下の箱根そばに、カレー味のあのコロッケそばが無くなった」と叫んでいた。あまり全体的にはウケなかったのは、喬太郎の『コロッケそば』を知らないからか。こっちは、大ウケ。

こういうのがライブ落語会の良さなのだろうけど、一之輔の話しを巻き込んだりしながら。

で、何をやるのか考えたのだろうか、『つる』の話しを始める。アレアレ、と思う客を逆手に、例の『ウルトラマン』噺。これ聞いたことがある、ウルトラマンの様々キャラクターの名付けの噺を、『つる』に掛け合わせながら。

喬太郎は、今日の客は、どのくらいウルトラマンを知っているかを図りながら、噺の重点とか、ギャグを変えていく。枝雀並みに、舞台上の座布団上を動く。

落語は、客との兼ね合いと言うが、実感した。客の反応を見て、ウケるかウケないか、知っている話題かどうか、瞬時に見分けて、ギャグを使い分け、あるいはその場で更新していく。ウケないのを、客のせいにはしないで、客に合わせて、話しをくすぐって、結局、大笑いを取る。さすが。頭が良いんだろうね。

 

白酒は、喬太郎の後でやりにくかろうが、『死神』。きっと喬太郎が持ち時間をオーバーしたから、どうやってお終いにするか悩んだかな。大トリなのに、大笑いさせる実力はあるのに、ご存じネタ『死神』。でも、常の通りには話さない。特に、最後。今回の白酒は、うまく新しい蝋燭に点火できた後、垂れてきて熱くなって、放り出してお終い。死に神を追い出す呪文に、今日の二人の話を盛り込む。これも、ライブの楽しさ。

 

丁度脂の乗りきった噺家3人の会。最高に面白い。来年も行くか。喬太郎が良いねえ。ただ、来年まで主催のパインオリジンが持つか。

 

30分間、台本を見ずに、メモもなしで、話し通せるか。できますか。ボクも何回か「講義」をしたことはあるけど、ほぼ完璧なレジュメを作って、それでもそれを読むだけのつまらない学者講義では無くて、それこそ聴衆の反応を見ながら重点や、冗談を変える。

それを上手な噺家は、まったく台本なしで、即興的に話題を繰り出す。こんなことできますか。よっぽど、元となる古典なり、新作なりを自分のモノとして、その上で、作る上げていく。素晴らしい。