久しぶりに、読書のブログにします。
コロナ危機下で、蔵書を見て、何にしようかなあと手に取ったのがこの本。ちょっと、仏教哲学的な気分でもあったので。
「正法眼蔵」とは、曹洞宗(禅宗)の開祖である道元禅師が、1231年~1253年に死去されるまで著した、仏法の端的な、肝心要な事柄を書いたものらしく、教外別伝(お経以外、ということかな)の心印らしい。全87巻もある。
「正法眼蔵随聞記」とは、道元の弟子である壊奘(えじょう)師が、道元の法語を記録した書、らしい。
済みませんが、素人なので信用しないでください。
そして本書「ある禅者の夜話」は、紀野一義さんが、「正法眼蔵随聞記」から、幾つかをピックアップして、現代語訳して、解説を加えたもの。真如会ですね。
1988年11月に読んだとのメモがありましたが、なにぶん33歳の時ですから、まったく記憶に無くて、積んで置いた本。ラインも引いてあるのに・・
今回、2度目ということになるが、初めて読んだ気分で、新たにライン引き。
かねてから、それこそ33歳頃から、仏教には興味を持っていて、般若心経から入ったのですが、禅宗に引かれて、買ったのでしょう。ただし、当時はまったく解らなかったらしく、曹洞宗と臨済宗の違いもわからず、更に、お念仏(南無阿弥陀仏)とお題目(南無妙法蓮華経)の違いもわからず、ただただ、仏教への興味と、禅宗への親近感と、創価学会の池田大作に対する嫌悪感だけは持っていて、今もそれは変わらない。
今、この本を読み返してみて、時間があるのでかなりじっくり読んでみて、さて、禅宗が解ったか、曹洞宗が解ったかというと、そうでもないですね。
「只管打坐」とか、格好いいし、解った気にもなりそうですが、「只管打坐」は最終的なもので、道元自身、その境地に達する前は、仏知識は深遠なものであったのであって、その前段階にすら到達していないな、というのが率直な感想。
また、紀野一義さんの解説は、とても納得がいくものでもなく、結局は真如会の宣伝かな。「正法眼蔵」を読まなくちゃダメかなとは思ったけど、87巻の大部では無理。では、せめて、「正法眼蔵随聞記」を読まなくちゃあね、という感想です。
並行して、「般若心経」に関する書物にも目を通しました。
「般若心経」も、33歳当時だと思うけど、数冊解説書を読んでいて、短いお経なので、全文唱えることができるし、般若心経が書かれた手ぬぐいは、愛用品。
その般若心経の中でも、有名なのは、色即是空空即是色。でもその前にある色不異空空不異色の方が好き。
更に、最後のマントラ。
三蔵玄奘法師は、この部分を、漢語に意訳せずに、音として、漢語に落とした。
掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩堤僧わ(漢字が出ない、草冠に沙)か(これも出ない、言偏に可)
和語に落とすと、
ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか
このたび、原語のサンスクリット語を発見。インターネットは便利ですね。不正確ですが・
gate gate paragate para-samgate bodhih svaha
意味はあるのですが、マントラとして唱えた方が良いですよね。
やはり、般若心経かな。