3月15日(日) 梅若能楽学院会館
能 『翁』
シテ(翁)小田切康陽 ツレ(千歳)川口晃平 アイ(三番叟)三宅近成 アイ(面箱)倉田周星
笛:栗林祐輔 小鼓:田邊恭資・清水和音・古賀裕己 大鼓:柿原弘和 地頭:鷹尾維教
舞囃子 『高砂』 松山隆雄
笛:竹市学 小鼓:飯冨孔明 大鼓:柿原孝則 太鼓:金春國直 地頭:梅若長左衛門
仕舞 『清経』キリ 鈴木矜子
『半蔀』キリ 板東愛子
『須磨源氏』 髙橋栄子
地頭:富田雅子
(休憩)
狂言 『佐渡狐』 (和泉流 三宅籐九郎家)
シテ(御奏者)三宅右近 アド(越後の百姓)前田晃一 アド(佐渡の百姓)高澤祐介
仕舞 『箙』 松山隆之
『胡蝶』 会田昇
『邯鄲』舞アト 角当直隆
地頭:山崎正道
(休憩)
能 『檜垣』
シテ(老媼 老女の霊)梅若紀彰 ワキ(山僧)福王和幸 アイ(岩戸山ノ者)三宅右矩
笛:竹市学 小鼓:飯田清一 大鼓:亀井広忠 地頭:梅若実
新型コロナウイルス感染拡大防止の対策を十分に取りつつ、開催。快哉。これで良いのだと思うが、やはり、見所は、感染を恐れた方の欠席が目立つ。これはこれで自衛策だから仕方ない。自己判断。聞いてみると、自分が感染を恐れると言うよりは、同居者に高齢者や持病持ちがいて、自分が感染することによって同居者に移してしまい、重病化させてしまうかも知れないという危惧らしい。だから楽しめないんだと。なるほど・・。理解可能。だからといって、中止はないけど。
『翁』3度目。今年の1月、同じ梅若会の定式能で、シテ梅若紀彰で鑑賞しているから、どうしても比較してしまう。
橋掛かりからの入場。2番目がシテ翁と解っているけど、違うよね。前回紀彰師の時とは舞台の支配力、緊張感が違う。正中先でのお辞儀も、違うよね。もっと背筋がピンと。翁の謡いだし、「とーとーたらりたらりら」も違うよね。別に、小田切さんが下手というのでは決して無いけど、紀彰師の方が、相当上回るのだ。なんだろうか。迫力。姿勢。姿形。声質。
ツレ千歳の舞。川口さん、よろしいです。
アイ三番叟は三宅近成。『翁』はこの三番叟が一番大変。舞も激しいし、出ずっぱり。前回は三番三と書いてあったけど、狂言方の和泉流は三番叟で、大蔵流は三番三と書くらしい。前回は山本東次郎家の山本則秀、大蔵流。
小鼓3丁は、今回はよく揃っていた。後見についた重鎮が心配そうに。
『翁』はシテ以外は、若手がやるのかしら。
舞囃子『高砂』は、14日(前日)のさがみはら能が延期になってしまった松山隆雄さん。やはり、梅若の舞はよろしい。
女流の仕舞3曲。シテ三人が初めから登場して、大小前に並んで控えて、一人ずつ。二人目の板東さんは、やはり声が高くて、やはりあれでは、一般の能の地謡には入れないなあ、と。地頭の富田さんは、さすが。
狂言『佐渡狐』は何度目かしらん。ストーリーはよく知るし、きっと寝てしまうかもと思っていたが、豈図らず、興味深かった。
今年の3月の中止になってしまった狂言堂で『佐渡狐』をやる予定だった三宅籐九郎家が、シテ御奏者は同じで、他の配役はやや変えて、そのまま。
このお家は、あまり馴染みがなくて、まともに観たのは初めてだった。印象としては、お茶で言うところの表千家。地道なところを、しっかりと、あまり創意はせずに、きちんと淡々と演ずる感じ。ちょっと見直した。本日の『翁』の千歳も、きちんと舞っていたしね。千歳のイメージは、野村萬斎や山本則秀があったけど、派手さや迫力は劣るも、良いのではないか。
仕舞3曲。今度は男性で、一人ずつ登場して、常の風で。やはりかなりの腕前です。
で、メインの『檜垣』。2度目。シテ紀彰師。
一言での感想は、素晴らしい。凄い。感動的。大絶賛。終わった後、奥様とご挨拶したら、奥様が「大曲だったのね。100点」だと。
かつては太宰府で白拍子をしていて人気者だった女が、百歳にいたって、衰えて、白川のほとりの檜垣の庵に住み、昔日の藤原興範に水を乞われたうれしさからか、それほどの人気白拍子だったから、今や、閼伽の水を長年供えて、無常を悲しみ、弔いを求める。そこに僧が居住していて、本当の姿を現せと。すると、作り物の檜垣の庵から、最初は声だけ、次は姿を見せ、外に出て、静かに舞う。昔日を思い出し、現実の老いに悲しみ、それでもそれを受け入れて、供養を頼む。
前シテ登場の橋掛かりの歩み。ゆっくりした。ここで、舞台にはキリッとした緊張。僧との会話を済ませて、作り物の中へ。
アイのあと、作り物の中から後シテの声。ワキ僧に請われて、姿を現すが、すぐには外に出ない。家の中で、後シテは、綺麗な青色の着物を着ている。そこで、ややうつむいて、ほんの少し首を左右に動かして、恥ずかしさを表現する。
もはやここで素晴らしいの一言。この動き。この声。
作り物から出て、序ノ舞などを舞うが、けっして華やかな舞ではなく、動きもわずかだが、その舞姿に揺るぎはない。ゆったりとした動きでも、フラついたりするモノか。どうしてあんな動きができるのか。
かつての美女白拍子の思いも捨てず、でも、現実の百歳の老媼。かつての美しさと、現実の姿。醜いのではない。醜女ではないのだ。かつての美しさを秘めた、老女。
舞も、歳を経て上手く舞えないのでは無い。かつての上手を踏んまえて、現実の老媼の舞となる。でも、水鏡に写る我が姿を見て、悲しさと諦観が入り交じり、しかし、弔いを求める。こういう老境の世界。
これを、シテ紀彰師は、決して大きくはない動きの舞の中で、十二分に表現する。
途中で衣装が破れて、後見が出てきて、白糸で留めた。自然に。こいう後見の役割は初めて見た。
前に『檜垣』を観たのは、2019年9月1日。国立能楽堂での観世流。このときは、観世の重鎮がシテ方だったが、お年を召しすぎたのか、舞もふらつき、下に居からの立ち上がりで、後見の力を借りる。老女の演出かと思ったら、そうではなくて、自らのお歳によって、できなかったんだよ。
今回は、シテ紀彰師は、そういう老境を、演技で示した。凄い。
最後の「残り留」というらしいが、留め拍を踏まずに、静かに、静かに退場する。勿論、それでも、腰から上は微動だにせず。深遠な。
この感動は、『檜垣』という大曲だからではない。勿論、大曲・秘曲ではあるが、結局はそれを勤めるシテ方の技量に懸かる。紀彰師は、我らがお稽古の師匠という欲目ではなくて、当代一流のシテ方に違いない。あの紀彰師ありての、この『檜垣』の感動。2回目だから、比較してしまって、十分に感じ取れる。
能の鑑賞を続けて良かった。取り分けて、紀彰師に謡・仕舞を習うことができて、望外の利得。まさに、貴遇であります。