10月14日(月・祝) 横浜能楽堂

狂言 『空腕』(和泉流 野村萬家)

  シテ(太郎冠者)野村萬 アド(主)野村万蔵

(休憩・火入れ)

能 『姨捨』 (観世流)

  シテ(里女・老女)浅見真州 ワキ(信夫何某)大日方寛 アイ(里人)山本泰太郎

  笛:竹市学 小鼓:吉阪一郎 大鼓:柿原弘和 太鼓:小寺真佐人 地頭:浅井文義

  面:前シテ「曲見」(作者友閑) 後シテ「姥」(作者洞白)

 

12日の国立能楽堂普及公演の中止、13日の横浜狂言堂中止を受けて、本来三日連続(11日の銕仙会も入れれば四日連続)の能楽鑑賞になるはずが、飛んでしまった。

 

『空腕』は、三日前に、宝生能楽堂で、シテ太郎冠者野村萬で観た。その時のアド主は野村万之丞だったが、やはり、今回の野村万蔵の方が、どう言ったら良いかわからないけど、上手。発音もはっきりしている。動きも良い。シテ太郎冠者野村萬(人間国宝)は、同じだけど、前回は、暗闇の中で柱を人間と間違える下りがあったような。

近接した連続だからか、横浜能楽堂の音響効果の方が良いからなのか、台詞がよく聞き取れる。

連続同一曲も悪くない。

 

蝋燭能と言うことで、火入れ。本舞台の廻りの白砂利部分に、何本か蝋燭柱が立っていて、白紙で覆われて、中に本物の蝋燭が入っている。

火入れ式は、暗闇の中で。

お能は、見所は照明を消し、舞台の照明は薄くして、蝋燭の光で下から照りあげる手法。幻想的で良いし、秋の月見から始まる曲だから良い感じなのだけど、見所が暗くて、詞章等がまったく見えず。

 

『姥捨』は、『檜垣』『関寺小町』と並ぶ、三老女モノで、位が高く、重い曲。ストーリーは特になく、姥捨てされた経過や悲しさを表す。派手な舞も無い。ひたすらシテの技量が必要な曲。シテの技量に左右される曲。その点は、さすがに浅見真州、大したものです。

ただ、眠くなる。京都観世会館の『檜垣』で撃沈したから、今度こそはと思ったけど、間狂言はほとんど寝ていた。

老女モノは、シテも重いが、観客にも重い。詞章が、能ドットコムにもないし、銕仙会HPにもない、対訳本もない。檜書店が来ていて、観世流の謡本を販売していたが、蝋燭能では見えない。理解している観客しか満足できないのだろう。

きっと、能楽タイムズでは取り上げられるだろうなとは思うが、素人観客には、ホントに難しい。

それでも、最後の方で、通常と違って、旅僧ではない月見見物に来た信夫何某達がまず退場して、一人シテ老女が取り残される場面。またしても、置いて行かれてしまうのだ。その悲しみは良く伝わった。ガクッと膝を落として、座り込む。

信夫とは、福島県南部のことで、まあ近くの者が、中秋の名月を観に、信濃国更科の姥捨山に来るだけという設定。わずかに聞き取れた詞章では「都のモノ」と言ってなかったか。そこで、実際に捨てられた姥と合うのだが、そうなのね、可愛そうね、だけで、帰ってしまう。

座り込んだシテが、すくっと立ち上がって運命を受け入れるのだろうか。裾を踏んでしまっていてよろける。倒れなくて良かった。あのシーンでコケたら台無しジャンね。

たった一人シテが橋掛かりを、ゆっくり、静かに下がっていく。素晴らしい余韻なのだ。この最中に、シテがまだ幕内に入らないのに、囃子方後見や後見がごそごそと片付けて、切り戸口から下がっていくのは、如何か。

 

また、間狂言が大蔵流山本東次郎家で、前の狂言が和泉流野村萬家で、こういう組み合わせもあるのだな、と。野村萬家では間狂言を務められなかったのか。シテが、山本泰太郎を指名したのか。

 

高等遊民も、まだ、老女モノを楽しめる境地、力量には達していない。