この著作の中には、至言と理解すべき文が多々ある。

おおよそ、ページ順に、メモ代わりに紹介する。というか、読書日記。

 

世阿弥の名言にもある「家、家にあらず、継ぐを以て家とす」の意を私は、家を継ぐとは名前を継ぐのではなく、芸風を継ぐことだと考えています。

 

(『花子』の太郎冠者について)用事がなくなっても引っ込まずに居る、しかも何もせずに居るというのには大きな意味があると私は思います。狂言特有の”居るけれど居ない”存在です。

 

動かなくても表現になるという質が能・狂言には大事だと思います。芯を持って型に託すということが、能・狂言の場合、・・強く観客に訴えうるということなのだと思います。

狂言の中に能を感じて頂きたい。・・狂言の世界が一種の能的な世界を取り込んで、狂言能と呼べるものにしたい。

 

(宇野重吉演出の『子午線の祀り』を取り上げて)能でも本当の名人は型を踏襲しているかに見えても、その人間性なり心が芸ににじみ出てくるものです。宇野さんの「思わないことはするな、思えば出る」という印象深い言葉がある。・・様式から入る能・狂言の究極は「思わないことから入れ。思いはやがて出る」。

 

「間狂言は能に沈殿しなければならない」

能と狂言の関係は「能and狂言」ということで、また、「and」であるとともに、ある意味でイコール、「能=狂言」という面もなきにしもあらずなのです。

 

狂言の演者は「美しさ」「面白さ」「おかしさ」の順で芸を考えなくてはいけない。・・・「美しさ」の先には、能に連なっていく要素があるように思う。演者としても観る側としても、狂言を追求していくと能に連なっていくところがある。

 

”能”的な考え方で狂言を捉えることを私は大事に思っている。その視点で言うと狂言の場合は見所を笑わせようとするサービス過剰を戒めなくてはいけないと思うのです。・・・狂言はあくまで狂言で、笑わせてナンボという喜劇とは違います。

 

以上、あくまでも野村万作の考える狂言だけど、茂山家とは違って良いのであって、しかし、肝に銘じる言葉であると思う。能との違いと同質性も、なるほど、と。