去年の8月31日をもって、正式に事務所を閉鎖し、事務員も解雇した。
その旨、このブログの一番初めの記事に書いてある。
それから、丸1年が経過して、自称高等遊民はどうであったか。
相変わらず、「自ら」、「高等」と名乗るのは如何か、という誤解がある。
「自ら」は自称のことだと思うが、これは、良くテレビなどのニュースである例えば自称会社役員などと同じで、誰も公認しない、単なる自己のみの主張である。恥隠しの意味もある。謙遜の意味もある。
「高等」は、あの時代の意味を理解すれば分かるが、性質や人格が高等という意味では決して無く、単に、高等教育を受けている、という意味です。これは、明治のあの時代のことを思い出せばよろしいです。帝国大学や私立大学の高等教育を受けているのに・・、という意味。
だのに、生活には困らないから、贅沢はできないけど、仕事もせずにぶらぶらしているのが「遊民」です。単にぶらぶら遊んでいるのじゃ無くて、趣味の世界に、雅やかに生きているというのが、「高等遊民」。世間の役に立っていないのです。
さて、この1年間、高等遊民を目指して生きてきたけど、どれほど実現できたか。
読書、落語、クラシック、相撲、狂言と色々あったけど、お能を例に挙げてみると、
まだ高等遊民化宣言しない2016年10月に『景清』を観たのが最初で、2017年は4番4曲、高等遊民になる直前の2018年6月『砧』を鑑賞して、同年9月以降急増して、今年の8月末までで、合計して52番45曲、高等遊民宣言以降で46番39曲鑑賞した。
一月平均3.8番になる。週に1番程度。来月は、7番予定がある。
加えて、今年は、謡・仕舞教室に参加して、梅若紀彰師という良き師に巡り会い、良き仲間とも会って、これを「貴遇」という造語を作って、人生初の古典お稽古。袴まで履いて発表会。病こうじて「紀彩の会」なるお稽古グループまで創設してしまった。
お能という趣味に没頭した。でも、読書、落語や狂言、相撲も、クラシックも、それ以外のコンサートも。
さあ、体力が続く限り、このまま行けば高等遊民では無いのかしら。健康寿命は残り何年か。それまで。
日々是好日。一期一会。今を生きる。これが高等遊民の極意。