今まで、このブログで書籍の紹介はしてこなかったが、高等遊民的生活の目標の一つに、読書などして過ごす、がある。

しかし、去年9月以来、法学の書籍を全部処分し、沢山に積んである書籍をボチラボチラと読んでいこうと思っていたものの、現実には、能・狂言や、落語、演奏会などに追われて、大した読書もしておらず、集中して本を読んだことが無かったので、紹介しようか、と。

2007年9月10日、白水社発行。著者 観世榮夫(構成 北川登園)。

 

謡・仕舞教室が終わって、何かお能関係の本でも無いかなと、図書館で探したら、たまたま、発見。

ご存じの方も多い観世榮夫が、死ぬ直前まで書いたり編集したりしていた自伝で、遺書に近いものになっている。

1927年8月3日生まれ、2007年6月8日死去。後書きは、編者が2007年6月19日付けで書いている。5月3日の交通事故と、大腸ガンが死亡につながったらしく、事故直前まで原稿をチェックしていたらしい。

 

目次は、お能の番組に従って、

初番 能役者の家

二番 喜多流の芸養子

三番 劇的探求の旅

四番 観世流への帰還

五番 華から幽へ

 

初番から四番までが、半生を綴るつもりが、一生を綴った自伝。

五番が、出色の能談義。この中の章立てが、番号は付いていないけど、敢えて章立てするが、

一章 能の演技

二章 舞台に咲く華

三章 檜の舞台と観客

四章 日本語の宿命

五章 外国人の能

六章 伝統に安住

七章 初めて「姥捨」を舞う

八章 芸術の社会性

九章 泥眼と増女

十章 離見の見

 

勿論、初番から四番の歴史があって、五番の意味が理解できる。

このうち、七章で『姥捨』と『邯鄲』を取り上げ、八章と九章で『定家』を題材としている。『定家』は、8月25日(日)に京都観世会で片山九郎右衛門のシテで観たばかりだったので、感激はひとしお。この『定家』は、ホントは梅若実(人間国宝)がシテを務める予定だった。

 

謡・仕舞をちょっとかじったモノとしては、一章「能の演技」の記述が心に刺さる。著作権の問題は、出典を明記しているからクリアーされると信じて、敢えて、再記する。

 「歌舞を身につけるというのは、身体を思うままに自在に使えるようにするばかりでなく、声や旋律やリズムはもとより、音色までを自在にこなせる身体の感覚や筋力を体得することである。」

 「この身体の感覚があって、その上に役を演ずるというーいわば頭脳的な働きが一体化して、日常という時空を越えて幽玄の世界、しかも演劇上のリアリティをもった世界を創ることが可能なのである。」

 「能役者が身体を用いて演技するには、外部からのいかなる力にも対応できるよう、身体の力を解放してニュートラルな身体を保たなければならない。身体の隅々まで神経が行き届いている、いやいつでも行き届くように解放している状態である。

 このため、二つの足の裏の作り出す面の上に正しく身体が乗っていなければならない。そして、地球の中心へ引かれる重力というエネルギーを二つの足の裏で支え、天空の方向ーつまり、地球の中心の反対の方向に立ち上がるエネルギーとして、美しい姿を保たねばならない。これが”腰が入った構え”というものである。」

 「能の基本はすり足を基本にしている。すり足と普通の歩行の違いは、普通の歩行では重心が“点”で移動するのに対し、すり足では重心が“線”で移動することである。」

 「このすり足がそのような表現になるためには、それを支える正しい構えと深い息の詰め開き、集中力、持続といったものを必要とする。」

云々。

重いコトバです。

 

世阿弥の「風姿花伝」や「花鏡」は、申し訳ない、読んでいないのですが、観世榮夫は現代の世阿弥と言えるのではないか。

お能に興味を持つ方は、一読の価値があると思います。