6月5日(水) 国立能楽堂
狂言(和泉流・野村万作の会) 『薩摩守』
シテ(出家)高野和憲 アド(茶屋)月崎晴夫 小アド(船頭)野村萬斎
(休憩)
能(宝生流) 『藤栄』
シテ(藤栄)金井雄資 ワキ(僧・最明寺時頼)殿田謙吉 アイ(藤栄の従者)石田幸雄 アイ(鳴尾の能力)深田博治
謡の練習で、頭の中を謡がぐるぐる回っていて、以前のように能楽(狂言・能)に期待一杯という状態ではない。でも、国立能楽堂について、パンフを買って、いつものようにレストランで食事をしながらパンフを読んでいると、猛然と能楽の頭になってくる。
『薩摩守』は秀句(駄洒落)のお話し。平家の公達ー薩摩守ー薩摩守は忠度ータダ乗りという。何度目かな。野村萬斎の船頭を含めて3人が全員登場。出番が来るまで、萬斎はじっと待つ。寝ているんじゃないかと目を凝らすが、さすが寝ない。
萬斎は、声が高めで、最初に威すように話す船頭には合わないか。と思うも、舟に乗って、秀句好きが東国まで聞こえているとおだてられて、笑うと、例の狂言の笑いはさすがに面白い。
でもなんたること、狂言で眠くなってしまった。面白い狂言なのに。
能『藤栄』。シテ藤栄がワルモノ、ワキ僧、実は鎌倉幕府の執権北条(最明寺)時頼がイイモノ。ワルモノが甥の土地を取り上げてしまうのを、水戸黄門の如く諸国行脚の執権が正して、土地を返してあげるという、しかも、ワルモノは罰することなく許すという勧善懲悪、偉いイイモノのお話し。ワルモノがシテというのも珍しいのではないかと思うが、特に後半のシテの舞が見どころになっているから、シテ方で良いのでしょう。イイモノのワキは舞わない。
しずしずと、子方(月若)・つまり土地を取り上げられた被害者と、そのワキツレ(月若の下人)が登場する。子方は10歳らしい。ワキ方で鳴尾を演ずる野口聡の子。登場するだけで、一切発声はなく、ずっと、あのワキ方の座り方をし通す。中間で場所を変更するために立って歩き、また座って、また立って脇座近くに行き、たって居ることもあるが、ほぼ座りっぱなしで、立ち上がるときなど、従者役が介添えをしたものの、よくまあ、あの歳であのスタイルで板の間で座り続けることができるモノだ。視線は動かしてしまうのは、まあ仕方のないことだ。ワキ方で独り立ちするのだろうか。
ワキのあの殿田さんが、一箇所台詞(コトバ)を言い間違えた。次のワキツレのコトバを先行して話してしまう。こんなこともあるんだ、と思うと同時に、ああ、お稽古のせいか、ここまで聞き取れるようになったんだ、と。
一場面だけで、アイが2人登場するが、間狂言ではなく、狂言方がコトバを使う。藤栄の従者は舞も舞う。コトバは能の話し方と違う、狂言の話し方。実際に聞いてみると、違いがわかる。
物語の後半はシテの登場から始まる。ワルモノが遊びに出てくる。実力者シテ藤栄に媚びるシテツレ鳴尾。彼らは男色の関係にあるらしい。詞章には出ないが、アイの発言でそれと知れる。アイに舞わせた後、シテツレ鳴尾が扇を献上して、シテ藤栄の舞に移る。ここの舞は、権力者を讃えるモノ。この間に、ワキが脇座に移動して、笠を被り、扇で顔を隠して、舞を密かに見つめる。そして、シテ藤栄にもうひと指し舞えと言う。藤栄とその従者は無礼なるぞ、となるが、シテ藤栄は懲らしめようと、羯鼓を付けて、八つ撥を持って舞、不意を突いてワキを打ってやろうという算段。舞台上でシテが物着。そして、羯鼓の舞。
ここの二つの舞が素晴らしい。これもお稽古の成果で、あ、開いた、左右だ、上扇だ、サシコミだ、などと一々感動して、足運びや舞の扇働きなどを見る。上手だよなあ。シテ方だから当たり前だけど。以前ならば、物語の進行と関係のない舞は眠くなったりしたが、まったく眠くならない。どころか、集中して見つめる。
この能は、ずっと直面だから、顔つきや目の動きも丸見えになるが、キリッとして、遠くをじっと見つめ、格好いいなあ。
終わりは、しずしずと退場。今回の客は、囃子方などの退場後に拍手。良いんじゃないか。
そう。囃子方も今回は注目できた。掛け声や叩き方、太鼓の打ち方。囃子方の練習もしたいような。
最近、読書などはめっきり減って、頭が謡になっている、お稽古の録音を聞いて、口ずさむ時間が長い。仕舞の自主練習も。
観世流梅若派、らしい。ここでハマりそう。高等遊民、どこまでお稽古できるか。