濛々淡々として六十年
末期の糞をさらして梵天に捧ぐ
借用申す昨日・昨日
返済申す今日・今日
借りおきし五つのもの(地水火風空)を
四つ(地水火風)返し 本来空に、いまぞもとづく
一休宗純 辞世の句
ぼんやりと、また、こだわらずに生きた60年だが、
昨日借りたらものを、今日返すように
人生はあっという間である。
借りたものを返して、今、空へ帰る の意味
世が世であれば、皇子としての人生があったはずの一休宗純。当時の日本は南朝と北朝に分かれて争いをしていた時代。一休の父は北朝の後小松天皇で母は敵方の伊予の局といわれている。母は一休を身籠もると、皇位継承権争いに巻き込まれ、宮廷から追放されてしまいます。
このように、複雑な環境で生まれた一休。
「自分は生まれてこなければ良かった」と、想う時期があったのだろうか。自殺未遂をした経験もあった。 そのような人生の中で、一休は自分の生まれてきた意味を見出していったのではないだろうか。
ある時、一休は、よれよれの汚い法衣を着て朱塗りのさやの刀を脇に抱えて待ちを歩いた。
不思議に思った町人が、「和尚様、なんで朱塗りの刀など持っておるのですか」と訊ねると、
一休は、その刀をサッと抜いて、こういった。
「最近の偉い坊主は、この竹でできた刀と同じだ」
実は、その刀は、さやが朱塗りで豪華だが、肝心の刀身は竹でできた模造刀であった。
一休は続けて言う。
「一見、外見は派手で立派だが、中身は何の役にもたたん」
「さやに入れて飾っておくだけしか使い道がない」と言いった。
一休には、このような話がたくさんあります。
戒律や形式にとらわれない人間臭い生き方は、民衆の共感を呼びました。
一休の教えからは、
物事を異なる視点で見る大切さ
捉われず、ものごとの本質を見抜く大事さ
答えは一つではないこと
苦難から見出だす幸せ
心のあり方で幸も不幸にもなること、など
多くのことを学ぶことができます。
一休宗純(1481年没 享年88歳)
1394年に一休は誕生する。幼名は千菊丸。周建の名で呼ばれ狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。戒名は宗純で、宗順とも書く。一休は後小松天皇の落胤と言われている。落胤(らくいん)とは父親に認知されない私生子を指す。正式な血統の一族とはみなされないので、本来系図に書かれることもなく、通常は歴史的に登場することはないことが多い。
6歳で京都の安国寺の像外集鑑に入門・受戒し、周建と名付けられる。早くから詩才に優れ13歳の時に作った漢詩『長門春草』、15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となり賞賛された。 1410年17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改める。謙翁は応永21年(1414年)に没した。この時、一休は自殺未遂を起こしている。1415年に京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそう そうどん)の弟子となる。応仁の乱後の1474年、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられ寺には住まなかったが再興に尽力した。
一休という呼び名は、 「洞山三頓の棒」という公案に対して 有漏路より無漏路に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け と答えたことから一休の道号を授かることになる。
※「有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無漏路」とは悟り(仏)の世界を指す。
後年、一休のもとには多くの文化人、芸術家が競って参禅するようになりました。
その中に、村田珠光という人がいました。
村田珠光は、それまでの派手で形式を重視した「大名茶」ではなく、茶をたしなむ者の「心の有り様」に重きを置いた「わび茶」を追求した人です。彼は、四帖半の質素な茶室の「その脱俗した空間ではすべてが平等であり、身分や主従などはなく、ただ亭主のおもてなしの気持ちが重要である」と考えました。
この村田珠光が原点となり、千利休から現代まで「茶の湯」が続いていくことになります。
今でも良く言われる、「わび、さび」の「わび」ですね。
「わび」とは、動詞「わぶ」の名詞形であり、その意味は「立派な状態に対する劣った状態」を意味します。
ものの価値とは、それを見る人の心(見方、感じ方)で決まる。
それはまさに、「見るものの心で美しくなる」、「仏は心の中にある」と説いた一休の思想を、村田珠光が茶道にとおして、具現化したものだといえます。