こんにちは。だいぶご無沙汰になってしましました。じいさんFです。

当初は「週一回に配信」などと宣言しておいて、今や「月一回に配信」に迫る怠慢さ。本当に申し訳なく思っています。

 

 さて、言い訳という謝罪をさせていただきましたが、今回は「戦跡」です。具体的にはパシルパンジャンのトーチカです。

 

【これがトーチカになります。場所はパシルパンジャン。】

 

 

 実は、このテーマをTwitterやYouTubeで既に紹介をしたのですが、詳しい解説はまだでした。そこで、今回からシリーズでお話ししたいと思います。テクスト(文字での表現方法)であれば、内容量は増やせるので、説明も叶います。

 

 さて、今年2022年。ウクライナ戦争が世界中で注目されており、ロシア軍の傍若無人、非人道的行為が鋭く非難されています。これはおよそ80年の時間を遡れば、そっくりと私たち日本人の問題に置き換えられるのです。現代では、戦争による武力解決の手段をとった立場が「戦争犯罪」として断罪されます。そうした意味では、1941年12月に米英蘭に先制攻撃を仕掛けた日本軍は、まさに今のロシア軍の立ち位置と言えるでしょう。

 

 しかも、その戦争の火蓋を切る前後に経済的な制裁を受けた経緯も、ある意味で今のロシアと日本は酷似していると申せましょう。

例えば、「ABCD包囲網」という言葉が当時ありましたが、それが日本に対する経済制裁網の代名詞です。(ちなみにA:アメリカ合衆国 B:イギリス。ブリテンの略 C:中国 D:オランダ オランダではなくてダッチの略になります)

 

 そうした歴史的な状況から、1941年12月に真珠湾攻撃と同時進行で、日本軍はマレー半島のコタバルなどに上陸。いわゆるマレーの戦いが始まりました。この先制攻撃のプロセスも今のロシアと同じです。

 

 諸説や定義の違いはありますが、日本軍には戦車(97式中戦車)があった反面で、イギリス軍にはその軍備がなかったと言われます。スチュワート式軽戦車は後の話。ましてはアメリカのシャーマン戦車はさらに後です。しかも、制空権と呼ばれる空の支配権は、早々に日本が抑えたので、空襲をやり放題。そんな状況から、イギリス軍は次第に追い詰められ、1942年の2月にはシンガポールで市内戦が行われます。

 

 大激戦は島内で何箇所かありましたが、今回のお写真で紹介するパシルパンジャン近辺もその一つ。ジュロンから東に迫ってくる日本軍とその中戦車をこのトーチカで迎え撃つイギリス軍とが激突するのです。

【今も残るイギリス軍のトーチカ。史跡になっています。場所はパシルパンジャンの西側】

 

【写真の向こう側は西の方角。ジュロンです。およそ80年前、向こうから97式中戦車が襲ってくるのですから、怖いです】

 

 

【ここから機関銃で迎撃するかと判断できます。小さな穴なので山砲や、ましてや重砲は使えないかと思います。日本軍に立ち向かえるのでしょうか】

 

 ここで、注目したいのは、主力の兵隊がイギリス人ではなくてマレー人である問題点。このトーチカが陥ちた後、東に1キロくらいの丘で更なる大激戦になります。

 

 

【トーチカの側面】

【日本語でも解説があります】

 

 ウクライナ戦争のマウリポリで行われている白兵戦の立ち位置がこの地域での戦争でした。想像するだけで、恐ろしくなります。 

 

 次回は、それについて考察していきたいと思います。

 

それではまた。

 

2022年4月12日 じいさんF