本人の意思が

基本的には尊重される、と

 

まあ日常生活でも当然ながら

自然に行われていることなのですが。

 

 

医療の面になると

 

本人の意思なの?

 

ご家族の希望なの?

 

そういう場面はすくなくありません

 

 

個人的な意見としては

家族であっても

本人の意思を超える事はできない、と

考えています。

 

 

 

母は人工透析をうけていました

 

母は見た目を気にする人でしたから

先ずはシャントをつくることを

拒否していました

 

ほんとうにいやなら

腎臓内科の主治医に

透析しない、って言えばいいのに

主治医の前では

 

「はい、わかりました」なんて

いい顔をして

まえもってシャントをつくることに

同意をしたのです

 

 

これにはびっくりしました

 

そのくせ家に帰ってきてからは

 

「ほんとは透析なんかしたくない」

「あの医者はヤブだから、そうやって透析を

すすめるんだ(いみわからん・・・)」

「娘のくせにお母さんのきもちをわからないのか」

etc.

 

 

今でもわからない

 

母が透析をしたくない、って言ったことが

本心なの?

 

それとも

ほんとうは

透析したいの?

 

 

 

結局

肺水腫、心不全で救急にはこばれて

透析を行う事になり

当然のことながら

そのまま維持透析に

 

 

病院にいるときは

主治医や看護師には

「おかげさまで」

「命拾いしました」

なんて言ってるのに

 

私にむかっては

「娘のくせにお母さんの気持ちを

理解してくれない」

「親不孝者だ」

「あれだけ透析はしたくないと言っていたのに」

「知らない間に(救急搬送されたこと

おぼえてないから)透析を了承して」

「ひとのことだとおもって」

 

 

当時まだ母は60代

人工透析をすればもう少し生きられるなら

いやかもしれないけれど

もうすこし、って思うことは

そんなに悪いことだったのか

 

 

本人の意思・・・って

 

 

幾度透析をやめてください、って

病院に駆け込もうとおもったかわからない

 

なぜなら

 

母が私に言う言葉に耐えられなかったから

 

「透析をはじめたのはあなたの責任」

「仕事をやめてでも母親を透析に

送り迎えしなさい」

「仕事とお母さんとどっちが大事?」

 

仕事をやめるべきか、真剣に悩んだけれど

やめたくなかったのと、

やめたところで、っていうのがあって

母にはバス送迎をうけいれてもらった

(最後までいやがっていた)

 

親不孝っていわれたらそれも真摯に受け止める

 

でも

そんなにいやなら透析をやめればいいじゃん!!っと

いうと

 

「だって先生が・・・」

「そんなこと私は決められない」

 

 

もうっ!!

 

でも結局駆け込まなかった

母もやめたい、と直接主治医にはいわなかった

 

 

 

 

今思うのは

トシをとったいま思うのは

 

どちらも母の気持ちだったのかな、と。

 

生きたい

生きたくない

死にたい

死にたくない

終わりにしたい

終わりにしたくない

 

 

 

 

透析生活は10年ほどにおよんだ

 

 

認知症が顕在化してからは

やめたい、という言葉すらいわなくなり

当たり前のように

バスにゆられて

通って

バスにゆられて

帰ってきて

食べて寝て・・・

 

なにも文句を言わなくなった母をみると

 

また胸が苦しくなった

 

私が透析さえ了承しなければ

もしかしたら今の時間は

母にはなくて

 

つらい時間、寂しい時間を

感じなくてすんだのかも・・・

 

 

 

結局母には

あの世でもう一度きくしかないと

思っています

 

 

でもね

 

 

透析したから

 

孫にもあえたんだよ?とか

 

色々どうおもっていたの?って

聞きたい

 

もうふれられない母の手

もう聞くことのできない母の声

 

あちらの世界で会えるはず

 

その時は

まず謝ろうって思っている

 

 

親不孝でごめん

 

 

 

その次に

それでも生きていて欲しかったって伝えようと

思ってる

 

 

あさからしんみり・・

 

 

 

いってきます!!

 


 

人間のこころは一つじゃない

 

色々なひとに

みせる顔が全部

その人の気持ちなのかなと

今なら

やさしくできるのに

 

ほんとに

あのころやさしくできなかった

 

後悔・・・・