団体の先頭にいた者が答えた。

「はい。二宮金次郎です。銅像ですが。」

確かにみんな同じように青みがかった古臭い格好をし、その色はさらに顔や頭にも広がってた。全部で二十人はいただろうか、そのすべてが同じような作り物の顔と頭をしてた。頭は、髪の毛が一本一本あるのではなく、茶筅に結った子供っぽい髪型の輪郭だけあった。そんなんでもおそろいの帽子をかぶって団体で進んでると意外に気が付かないものだ。顔にだけ目を止める人もめったにいないもんだ。

「二宮金次郎像は『ながら歩き』を助長するとか言って撤去されたと聞きましたが……。」

「撤去されて座像に作り直されるのを待ってたら、こうして歩けるようになったのです。」

「予兆みたいなものはあったんですか?」

「特にそういうものは感じませんでしたね。なんかムズムズするなあと思ってたら足が動き出しました。どちらかといえば、オール・オブ・ア・サドンですね。」

「突然ですか。そういえば、こっちが歩けなくなったのも、いきなりでしたし、交通事故で半身不随になったなんて言うのも予期せざる出来事ですね。」

「しかし突き詰めれば、物事が少しづつ進むような場合でも決定的な出来事が起きるのはいつでも突然なのかもしれませんね。たとえば、脚が少しずつ弱っていって最終的に歩けなくなるような場合でも、ぎりぎりの瞬間まで『まだ何とかなる』と考え、決定的なことは最後まで『まさか』そんなこと起きないだろうと考えるだろうからです。そう意味では運の流れの変化など何らかの予兆があるのかもしれません。」

自分の場合はもそうで、何らかの予知は可能なのを意識してかせずにか認識してたのかもしれないかもしれないな、と思ったが、とりあえず聞きたいことを尋ねた。

「それで歩けるようになってどうしたんですか?」

「とりあえず道路に出て歩けるか試しました。それまでは歩く格好をしてただけなので実際に歩けるか不安だったんです。」

「で、無事に……。」

「はい。問題なく歩けたようです。なので、気の向くまま、足の向くまま歩いてたらいつの間にか仲間が集まってきたというわけです。」

「その後は?」

「基本的に足の向くまま、ですね」とこともなげに答える二宮銅像に聞いた。

「どこか行きたい場所とかはないんですか? 長年にわたり動けず立ってたんですよね。その間に,もしも歩けたらどこそこに行きたいとかなかったんですか?」

「そうですね……」

「寿命に制限のある身としては何かを見に行くのは時間の無駄かもしれないといういうアセリみたいなものもあるのですが、皆さんみたいな銅像の方はそんなことはないですよね。」

二宮銅像は強く首を振りながら、

「人間より長いとは思いますが、寿命みたいなものはありますよ。むしろ耐用年数と呼ぶべきかもしれませんが。雨や汚れ、歩行の振動による劣化で、200年ぐらいでしょうか。たとえそれがなくても無駄足になるかもしれないというオソレもありますし。」

「こっちも外出に限らず何にせよ無駄なことは避けたいという気持ちはあります。何か楽しいこと、好きなものに出会うかもとは、まず考えません。また、楽しいことを求めたいよりも無駄なことは嫌だと思ってしまいます。もちろん、そうでない人もいますので、これは年齢とかの問題でなく、むしろ性格的なものですね。ですが、それだけではないにしても、こうした傾向は年齢とともに強まっているようです。大本は性格的なものとしても、少しずづつ時間の経過とともにどっかに追い詰められていくような気持ちですね。」

「それは、単純に無駄足と思うことイコール気に食わないことじゃないですか?」

「そうかもしれません。だんだんと、その範囲が広がっていることも事実です。」

「ある意味では年齢を取って頑固になったといえるんじゃないですか。」

「そうですね。でも、世の中もずいぶん変わりました。前は壊れた原発なんかなかったし、こんなに異常気象も多発してなかったはずです。中国がアメリカを抜こうとさえしています。こうした変化の中、多少は頑なになっても仕方ないんじゃないんじゃないですか。」

「こちらは銅像ですから最初から体は頑なですが、……。あんまり世間に背を向けると世間に背を向けらるんでは、とも危惧されますが。」

「どっちかというと流行ものに特に関心を向けなかったので、そのきらいはありますね。誰かと文句なしで話が合うなんて経験も限られてますし。」

「それで困りませんでしたか。」

「例えば、戦争世代の人は戦争経験という世代の共通経験がアイデンティティを形成している場合も多いようですが、流行に背を向けるとそういう共通基盤が少なくなりますね。畢竟、人間は自らの属する世代によって自我を解消するしかないと思いますが(生まれるのも死ぬのもだいたい同じ人間の集まりが同世代だから,そして記憶の多くを共有するのも世代だから、です)、そのためのひっかりが乏しくなります。結局のところ、何かが無駄かどうかを判断する基準は自我になるので。それを克服するためには自我を克服しなければならないでしょうし。」

「世代としての経験の中に自分を解消することが本当に可能なものでしょうか。」

「例えば、雑草を抜いたとします。それは個人にとっては無駄なことでしかないのですが、おかげで転ぶ人が減るとしたら無駄になりません。その際、草をむしっとくと転ぶ人が減るという結果を保証するのが、一定の経験だったり一定の理屈だったりするのですが、より微妙な問題だと別の基準が必要です。」

「その一定の経験なり理屈が世代というわけですね。」

「はい。子供の時見たアニメやCМの話しでも説明なく通じるんだからありがたい存在です。ただ自分の場合には、そこに埋没しきれないようですので、世代的な興味と同化することができません。例えば冬ソナファンにとっては冬ソナの聖地は興味深いだろうけれども、自分にとってはそうじゃないということです。むしろ、どうでもいい。それでも、そこの場所を誰かに教えられれば、それは無駄足にはならないのですが、その場所に誰かが興味があるかどうかはその時点ではわかりません。」

「要は、自分は興味がないことには興味がないし、新しい経験から何かを学んだり育てだりしたくはないといいことですね。」

「そうかもしれないですね。歩行能力を喪失して以来、人の生死を含めて、あらゆることに現実感が感じられなくなっていることも事実ですね。現実感がないから興味がわかず、だから無駄足のような気になるってことでしょうか。」

「こうして銅像と話していること自体が非現実的ですね。」

「非現実的なできごとでも現実感を持って受け止められることもありうるし、現実的なことでもその知覚に現実感が伴わないこともありますし、わからないですねえ。」

ふと、この数年間に起きた事件・事故を思い出した。被害者の家族の多くがあの日から時間が止まったと語っていた。被害者が生きていた時と比べると被害者抜きの光景はやはり違うようだ。単純に、時間=距離÷速度ならば、速度の担い手にして移動する主体たる被害者がなくなれば、少なくともその被害者から認識される分の時間は認識できないことになる。つまり、時間が止まったわけでなく、時間が認識できなくなっただけだ。客観的な時間は流れている。……歩行能力の喪失の場合も同じだ。移動することにより認識されてた時間が認識できなくなったため、あるいは他の理由により認識できる時間が減ったため、時間の経過を十分に認識できない。そして、当然ながら時間がきちんと認識できないところには現実感もない。

「これは現実感がありますか?」

その考えを打ち切らせるように銅像がいった。銅像と話している点を除けば、意外に、非現実感を感じないなと思った。変なにおいもしなければ、変な音もしない。口内に血の味が広がることも、突然に生暖かい風が吹くようなこともない。見た目に奇異なところもあるが、これぐらいに奇妙な顔や髪形も珍しくない。

「まあまあですね。」

「そしたら、ついでに少し付き合ってくれませんか?」

どこかに行こうというのだろうが、付き添いの職員さんがいるのでそれは無理だ。そう伝えると、銅像は答えた。「ちょっと散歩に行きましょう。それに、職員さんを待たせないか気にしているようですが、我々と一緒に動いている限りは時間が経過しないようです。どうしてか分かりませんが、そうみたいです。先ほど長く話してた間もほとんど時間が経ってないはずです。」

確かに話している間は通りかかる人も車もなかった。落ちてくる木の葉もなかったし、もちろん、職員さんもまだ帰ってきてなかった。あれは時間が止まっていたのか。思えば暑くとも汗ひとつかかなかった。

「では、行きましょう。」

「どこへ?」

それには答えずに、相手になってくれてた銅像がこちらの車椅子を後ろから押し始めた。さらに前は4体、後ろには残りの銅像がつき、2列の行列を構成しつつ、どこかの国の軍隊のように一糸乱れぬ行進を開始した。そのままどの銅像も口をきくこともなく速度を上げた。車や木や住宅が後ろに流れ始め、前方には闇が広がっていた。

「あ、夜だ。」

それもすぐ消え、昼のさなかを銅像たちに連れられ進んでいった。山越え、街越え進んでいた銅像たちが立ち止まったのは長い坂の上で、ニヤリと笑うと車椅子を押し出した。